#111 浜松講和交渉(中)
かつては見上げる一方だった家康と、見下す一方だった氏真。
立場の逆転した二人が交わす言葉とは…。
かつての主君とかつての家臣。
無言で見つめ合ったのは一瞬、先に口を開いたのは氏真だった。
「三河守殿、お久しゅうござる。此度は突然の申し出に応じていただき、衷心より御礼申し上げる。」
そう言いながら浅く頭を下げる氏真の姿に、出席者の一部が小さくざわめいた。
家康を仮名の『次郎三郎』で呼ばなかった事。
先んじて頭を下げ、自分が格下であると進んで認めた事。
これらは氏真の、矜持をかなぐり捨てて家康に臣従しようとする姿勢を如実に示していた。
「…うむ。貴殿こそ健勝のようで何よりじゃ。されど、掛川城を立ち退いてより後は小田原にて隠居さながらの暮らしを送っておいでと聞いておったが…なにゆえあえて浜松まで参られたのか。」
「無論、駿河国を獲り返すためにござる。」
氏真の返答を耳にして、忠次は眉をひそめた。氏真の最終目標にある程度見当は付いていたものの、『それ』を再序盤から繰り出すのは上策とは思えなかったからだ。
「左様か。ならばこれよりは、馬上一騎にて武働きに励まれるがよろしかろう。」
「なっ…。」
思わず声を上げかけたのは氏真ではなく忠次だった。
没落したとはいえ氏真は名門の後裔だ。それを槍一本、身一つで立身出世を目指す素浪人同然に遇するなど、どう考えても馬鹿げている。
そんな声なき疑問に答えるように、家康は言の葉を継いだ。
「今の徳川に、貴殿に分け与えるだけの所領は無い。ましてや今の御身には郎党すらおられぬ。となれば、一手の大将も一城の主も荷が重かろう。馬上一騎より他に道は無いものと思うが?」
評定が始まる直前、氏真をこき下ろしていた連中がその通りと言わんばかりに頷くのを、忠次は忌々し気に睨む。
と、場違いに朗らかな笑い声が下座から噴き上がった。
「ほっほっほ…これは面白い。武田四郎(勝頼)を退ける好機を進んで擲つとは、徳川の命運ここに極まれりじゃ。」
「…まさかとは思うが上総介殿、わざわざ浜松まで首を斬られに参られたのか?」
家康が放つ威圧感を物ともせず、氏真は微笑む。
「儂を召し抱えるに三つの利あり…三河守殿であれば言うまでもなく承知の事と思うておったが、買い被っておったかのう。」
「では聞こう…三つの利、とやらを。」
「儂を担げば駿河へ攻め入るに名分が立つ、これが第一の利。儂の名を用いれば奥三河、北遠江の経略が捗る、これが第二の利。そして儂は幾度となく甲州勢と干戈を交え、その手管に通じておる、これが第三の利。即ち、儂を評定の末席に加えれば、武田四郎も恐るるに足らず。」
氏真の説得に、家中の面々が顔色を変える様子を見て、忠次は内心でほくそ笑んだ。
信玄が遺した精兵と宿老達、それを率いる気鋭の勇将を相手に戦い続けるには、氏真がなくてはならない人材だと彼らも気付いたのだ。
恐るるに足らず、とは大きく出たものだが、いるといないとでは天と地ほどの差があるだろう。
「しばらく!…お待ちあれ。上総介殿が申される事は一見もっともなれど…下心も二心もあるまじと、天地神明に誓えまするか?」
野太い声で待ったをかけたのは、『武の本多』として名を轟かせる本多平八郎忠勝だった。
「証を立てよ、と申されるか。」
「本領奪還のため、なりふり構わぬその生き様…この平八郎、武士として尊崇奉る。されど身一つでここ浜松に参られたからには、当家のため一心不乱に奉公いただきたく。」
疑心暗鬼が過ぎる――とは忠次にも言えなかった。
これまで幾人もの家臣が、一時は家康に忠誠を誓いながら、存亡の岐路に立たされるや否や徳川を見限って来た。乱世の習い、と言ってしまえばそれまでの事だが、氏真に関しては考慮すべき点が幾つかある。
本人の個人的武力や来歴…早い話、義元の仇である織田信長や『忘恩の輩』たる家康を闇討ちするのではないか、という不安。代替わりを果たした武田と和解し、駿河国の返還と引き換えに寝返るのではないかという懸念。
そうした不信感を払拭出来ていないのだ。
「平八郎殿の仰る事もごもっとも…されば、儂の覚悟の程をお目にかけよう。」
そう言うや否や、右脇に置いていた脇差の鞘を握る氏真に、出席者は一斉にどよめいた。
だが、氏真は座ったままゆっくりと脇差を抜くと、烏帽子を脱ぎ、髷の根元に刃を押し当て――すぱっ、と切り落とした。
「な――」
「――に⁉」
忠次も、忠勝も、誰もが絶句する中…軽く頭を振った氏真の頭髪がばらばらと広がる。
「徳川三河守殿…今川上総介、ここに改めて降参致す。無論、織田殿にも近々出仕の挨拶を致す。…各々方、如何にござろう。これでもまだ、儂を信ずるには足らぬと申されるか。」
氏真の淡々とした語り口に、誰一人言い返す事が出来ない。
…詰まる所、剃髪、出家は武士にとって方便の一つに過ぎない。頭を丸めてなお戦場に立つ者(武田信玄等)、還俗して俗世に戻る者(足利義昭等)…枚挙に暇が無いのが実状だ。
しかし、それでもなお。
名門名家の武士がかつての敵の眼前で髷を落とす…それは誰にでも出来る事ではないのだ。
「そこまでの覚悟とは…この三河守、大いに感じ入った。よかろう、貴殿を評定の末席に加えよう。ただし…君臣の別は弁えてもらうぞ、『上総介』。」
「ははっ、有難き仕合せ。」
「当座は小栗又一の屋敷に間借りするが良い。大口を叩いたからには役に立ってもらうぞ…今日はこれまでとする。」
誰からも異論が上がらない事を確認してから、家康は重々しく立ち上がり、大広間を後にする。
平伏していた家臣達が囁きを交わす中、忠次は静かに席を立ち、主の背を追った。
今更ですが、読者の皆様の中で本多忠勝はどんなイメージで登場しているでしょうか。
筆者としてはあまり定まったイメージで書いてはいない積もりですが、言動を読み返してみると某戦国で無双するゲームに登場する忠勝に似ている気がします。
だからと言って、蜻蛉切の先端からカッタービームが出る予定は今の所ありませんが。




