#106 残された者たち(前)
氏規による氏政への釈明パートです。
「改めて聞こう、助五郎。なにゆえ上総介殿らの出国を手助けした。」
小田原城の自室にて、北条左京大夫氏政は実の弟、助五郎氏規を問いただしていた。
「なにゆえ、と申されましても…最前より申し上げている通りにござる。上総介殿が三島よりも船が見たい、と仰せになりましたゆえ、下田まで案内し申した。直に乗ってみたいと仰せになりましたゆえ、船にお乗せした所たちまち乗っ取られ…。」
「助五郎!…いつまで戯言を垂れ流す積もりか。」
氏政の内心は千々に乱れていた。これまであらゆる無理強いに文句一つ言わずに従って来た弟が、突如として自身に反旗を翻したのだ。
仰天して小田原城に呼びつけて見れば、前後が繋がらない意味不明な説明を繰り返すばかり。今までの忠誠は一体何だったのか…。
「恐れながら御屋形様、『船』の話をここでしてもよろしいものかどうか…。」
思わせぶりに言いながら視線を横に向ける氏規を見て、氏政は自身の失策を悟った。『大和黒船』は北条家中でも機密事項、室内にいる小姓や太刀持にさえ知らせていないのだ。
現に若武者達は、「今川氏真を下田で船に乗せる事の何が悪いのか」と訝しんでいる。
「…助五郎と二人で話す。皆、座を外せ。」
氏政の命を受けて、若武者達は後ろ髪を引かれるようにしながら退出していく。
正真正銘二人きりになった所で、氏規は背筋をピンと伸ばし、氏政の顔を正面から見つめた。
「ご賢察、痛み入りまする。さて、上総介殿と早川殿一行の事について、でございますが…拙者が国境で鷹狩に興じる最中、一行と出くわしたのは全くの偶然にございました。」
「馬鹿な、左様な筈は…大した荷物も無く関所まで押し掛けた上総介殿とさしたる間も無く出逢うなど、事前の打ち合わせも無しに出来る訳が無い。」
「真実にございます。その証に、ここしばらく早川郷とは文の遣り取りなどしてはございませぬ。」
自信に満ちた氏規の言葉に、氏政は二の句が継げなかった。
今川氏真の一党が早川郷を出発して『疾風号』に乗るまで僅か三日。無駄の無い行程は事前の打ち合わせなくして有り得ない、筈だ。
(されど…早川郷の周りを洗えば助五郎の言い分の真贋はすぐに明らかになろう。この堂々たる物言い…まさか真に偶然だというのか。)
「相分かった、お主と上総介殿の一党とで語らった事ではない、と…それは認めよう。されど、韮山に引き取った一党を三島まで案内し、疾風号を見せるに留まらず乗船まで認めたはなにゆえじゃ。…三島詣ではさせなんだ、などという詭弁は許さぬぞ。」
並の武士であれば腰を抜かしかねない眼光にも、氏規は一切動じた様子を見せなかった。
「兄上の仰せの通り、上総介殿一同を下田に引き入れ、疾風号を目にかけ、あまつさえ乗船まで許したは拙者の不覚に相違ございませぬ。されど、今一度ご再考いただきたく。上総介殿を籠中の鳥のごとく早川郷に押し込めるは、真にお家のためになる仕置にございましょうや。」
「…何が言いたい。」
不覚と言いつつ、故意であったと匂わせる氏規に、氏政は眉間のシワを深くしながら聞き返した。
「信玄公は古今稀に見る戦上手にございましたが、約定破りの悪癖をお持ちにござった。聞く所によれば、信玄公の『隠居』を聞きつけた諸将はこぞって巻き返しを図り…武田四郎殿も防戦一方だとか。栄枯盛衰は世の理…代替わりを果たした甲斐武田がこれまで同様の武威を保つかどうかなど、誰にも分かりませぬ。」
「…今川を介して徳川との所縁を築いておくが得策、と。そう申しておるのか。」
冷徹な戦略家の顔で氏政が言うと、氏規は浅く頷いた。
「兄上が上総介殿を手元に置きたがっていた事、重々承知しております。されどそれは、武田に疑心暗鬼の種を植え付けたまま捨て置くも同義。今川が浜松に居を移せば、余計な疑いを持たれずに済みまする。」
「上総介殿の居住如何に関わらず、徳川と武田の駆け引きは続く…万が一、当家と武田の間柄に亀裂が走った折には…上総介殿を通じて徳川と誼を通じれば良い、か。」
自分の思考を整理するように淡々と呟いた氏政は、姿勢を正すと改めて氏規を睨みつけた。
「助五郎…お主の申す所、一々もっともである。されど、上総介殿を『迂闊にも』取り逃がした不始末の責は負ってもらう。当面加増は無いものと心得よ。」
「寛大なるご沙汰、恐れ入りましてございます。」
芝居じみた応答を経て、氏規は氏政の部屋を後にする。
その足取りはいつもと同じく軽やかで、一見無愛想な顔には僅かな達成感が滲んでいた。
北条氏規という人物は、北条→徳川→中央政権という外交ルートにおけるキーパーソンになっています。
今後しばらく氏規が直接登場する場面は少なくなると思いますが、引き続き手紙等で主人公と交流する予定です。




