#010 友野宗善、表裏比興(前)
ある程度戦国史に詳しい方であれば、本編を読んでいる間に「お前が言うな」と三回くらいツッコむかもしれません。
元亀元年(西暦1570年)五月 駿河国 駿府
かつて今川家が本拠とした日本有数の都市、駿府。その一角を占める広大な屋敷にて、華やかな宴が開かれていた。
暖かな陽の光が降り注ぐ中、琴や笛の音が鳴り響き、中庭に設えられた舞台では煌びやかな衣装を身にまとった演者が舞い踊る。
それを屋内の、最上位者の席から眺めるのは、穴山左衛門大夫信君――武田家親類衆の中でも屈指の有力者であり、武田の駿河国統治において中心的な役割を担う重鎮である。
数え三十にして甲斐国の山々のように険しい皺を刻んだ顔立ちは、今は幼子を慈しむかのようにほころんでいた。
「友野屋の催す宴はいつ招かれても良い事づくめじゃ。京の舞い手が歌い踊る様を観ながら、山海の珍味を肴に清酒を味わえる…日の本は乱世なれど、駿府はまるで極楽浄土よ。のう、八郎殿。」
信君の横で盃を傾けていた壮年の武士――葛山八郎氏元は、大仰に頷く。
「仰せの通りにございます。甲州武士の武威は日の本随一、これに駿河の風流が加われば、文武の両道において武田に勝る者はもはやございますまい。」
露骨な追従に、信君は嘲笑まじりの笑顔を返す。
そもそも氏元は、今川家の御一家衆であると同時に、甲斐国、相模国と国境を接する所領を有する有力な国衆だった。しかし二年前、武田家が今川家との盟約を破棄して駿河に攻め込んだ際、多くの今川家臣と歩調を揃えて氏真から離反。武田の駿河領有に大きな貢献を果たしたとして、本領を安堵されたのだ。
『境目の国衆』が戦況に応じて主君を渡り歩く事自体は日の本のどこでも見られる現象であるため、信君も取り立てて問題視はしない。
(されど、御一家衆として厚遇を受けていた割には容易く今川を見限ったものじゃ。)
信君が内心で氏元に冷笑を浴びせていると、舞踊が一段落し、宴の主催者が二人の前に膝を突いた。
「おお宗善、今日も見事じゃ。さすがは駿河一の豪商じゃのう。」
信君の尊大な褒め言葉に軽く頭を下げて返したのは、中年の商人――駿河随一の豪商、友野屋の当主である友野宗善だった。
「お褒めに与り、感嘆の至りにございます。恐れながら先の戦では大層骨を折られたとか…それがしには斯様に粗末な催ししか出来ませぬが、少しでもご両人の無聊を慰められれば、これに勝る喜びはございませぬ。」
「相変わらず耳が早いのう、友野屋…今川の形勢不利と見るや、早々に武田に鞍替えしたのも宜なる哉。」
自身の経歴を棚に上げて、氏元が宗善を詰ったが、当の宗善は身じろぎ一つしなかった。
「そう言うな、八郎殿…宗善は商人として、賢明な判断をしただけの事よ…そうであろう?」
信君が、いかにも懐の深い武士といった風格を漂わせながら水を向けると、宗善は媚びるような笑みを浮かべた。
「仰せの通り…商人の付き合いは銭が全て。銭の切れ目が縁の切れ目にございます。かつて今川は我が友野屋に数々の特権を下さった。我らはそれ相応の賦役を果たしたまでの事…今川が衰え、特権を保証出来ぬというのであれば、それまでの付き合いにございます。」
「左様左様、宗善は時勢をよく心得ておる…甲州の精兵を軍才無比たる御屋形様(武田信玄)が差配するとあらば、立ち向かえる将がこの日の本に何人おろう。武田菱の旗の下におれば、駿河も安泰よ。安心して商いに励むがよい。」
「ははーっ、有難き仕合せにございまする…。」
宗善は笑顔のまま、床に額をこすりつける。
ほぼ同時に演奏が再開し、次の演目が始まると、信君は「下がってよいぞ」と宗善に退席を許し、自らは観劇に戻った。
「ふん、銭の亡者めが…。」
宗善に聞こえるかどうかの声量で氏元が呟いても、宗善が頭を上げる事はなかった。
穴山信君を駿河統治における武田の重鎮と紹介したのは、諸事情によるものです。
この時期はまだ駿河方面の最高責任者が誰かはっきりしていないとか、駿河を巡る戦乱で信君がよく取り上げられるようになるとか、そういった都合によるものです。
実際には山県昌景も重要なポジションにいたようですが、上記の都合により後回しにさせていただきました。