#001 プロローグ(前)
前作が完結しない内に続編を始めてしまいました。
前作をご存知ない方にも楽しんでいただけるよう気を付けて参ります。
応仁の乱の勃発により、日本全域が本格的な戦国乱世に突入しておよそ百年…後に日本史にその名を刻む英傑が、新たな一歩を踏み出した。本領、尾張(愛知県西部)に加えて美濃(岐阜県南部)を制し、室町幕府十三代将軍たる足利義輝の弟、義昭を奉じて率兵上洛を果たした男――織田信長である。
信長とその将兵は、これより幾多の戦場を駆け抜け、血沸き肉躍る英雄譚を紡いでいく…。
一方その頃、とある戦国大名が、歴史の表舞台から静かに姿を消した。今川氏真――かつては信長を凌駕する勢力を誇りながら、桶狭間の戦いを転機として没落の道を辿った名門今川家の跡取りである。
だが今川は、真の意味で滅亡した訳ではなかった。領地のほとんどを失った氏真は、名を惜しんで討死するのではなく、妻の実家である小田原北条氏を頼って生きながらえる道を選んだのである。
北条はこれを迎え入れ、小田原城下の「早川郷」に所領を用意した。
夫に先んじて早川に移住した妻こそ、北条家先代当主、氏康の娘であり――後に「早川殿」と呼ばれる女性である。
元亀元年(西暦1570年)四月 相模国(神奈川県) 早川郷
「おい、見ろよ。早川殿がお帰りだ。」
野良仕事に精を出していた百姓の男が、隣の仲間に声をかけた。言われて顔を上げた男の目に入ったのは、複数の輿の前後に護衛の侍や侍女、小荷駄を引き連れた、小身武家の嫁入りと見まがう規模の行列だった。
「おお本当だ。今度も無事にお戻りになって…良かったなあ。」
早川殿は小田原城下に屋敷を構えると同時に、小田原城内にも住居を与えられている。その早川殿が、城下の屋敷に移動する事を『お戻りになる』と表現している事実は、百姓達が彼女に一定の敬慕の念を抱いている事を示していた。
「この早川郷がこんなに早く立ち直ったのも、あの方のお陰だからなあ。」
その言葉には二つの意味が込められていた。
早川殿の血筋と、その施策について、である。
昨年(永禄十二年=西暦1569年)、北条は領内奥深くまで甲斐武田家の侵攻を許し、小田原城下は放火と略奪――いわゆる乱暴狼藉――にさらされた。
当然、早川郷も例外ではなかったのだが、今川氏真の妻――北条家先代当主の娘で現当主の妹――が居を移すとあって、周辺よりも優先的に資金と人手が投入され、比較的早期に復興を果たしたのだった。
しかし、早川郷の領民は『今川の奥方』の来訪に、期待よりむしろ不安を感じていた。駿河の商人と結託して蓄財に励み、贅沢三昧、酒池肉林の日々を送っていたとの噂が、北条領内に広まっていたからだ。
武田の乱暴狼藉で荒廃した田畑からの収穫量などたかが知れている。その上で規定通りの(あるいはそれ以上の)年貢を納めるよう要求されれば、結局自分達は立ち行かなくなるのではないか――。
結論から言えば、領民の懸念は杞憂に終わった。
早川殿は移住直後に、領民の陳情を待たずして一年の年貢免除を通達。それどころか、郷内の寺院を通じて食料や金銭の配布を実施した。
加えて、かつて北条領内で猛威を振るった疫病の収束に貢献した薬師、臼川越庵が診療所を開設。百姓農民はケガや病気を無料で診てもらえる事となったのだ。
こうした一連の『徳政』は早川郷の民の警戒を解き、早川殿への敬慕の念は一気に高まった。
もはや早川殿の枕詞として用いられるのは『今川の奥方の』ではなく、『先代様の徳を受け継いだ』である。
「しっかし、早川殿も不憫なお方だよなあ。」
百姓の一方がそう呟くと、もう一人は何度も頷いた。
「今川っつったら公方様(室町幕府将軍)にも連なるお家柄、東海道の三カ国を治める大大名だったってのに…武田に裏切られて、家中からも見放されて、こんな所でひっそりと…。」
戦国時代において、支配者の善悪は『過程』ではなく『結果』で判定される。
長年に渡って善政を敷こうとも、戦に敗れて没落すれば『暗君』。
他国を侵して破壊と殺戮を繰り広げようとも、戦に勝ち続ければ『名君』と称されるのだ。
にもかかわらず、早川殿とその夫に向けられる領民の視線には、侮蔑ではなく憐憫の色が込められていた。
「今川の殿様は駿河を取り返そうと頑張っておられるけんども…出来る事ならいつまでも早川郷を治めてほしいのう。」
「んだんだ。」
屋敷の正門をくぐる行列を見送って、二人は野良仕事へと戻っていく。
その足取りは活力に満ちていた。
これは、一度は輝かしい人生のレールを外れて表舞台から退場した一組の夫婦が、独自の道筋を辿って復活を果たす――小さな奇跡の物語である。
一週間連続投稿の予定です。