片羽の太刀 影
その昔。
まなはまだまなではなく、高旗もなく、むあがあり、中つ海もなかった頃。
だから、記憶にとどめるものは最早ないほどの、昔。
むあの地のいずこかに、いまや中つ海の底に沈んでしまった、かつての大地に行き倒れがあったという。
その者は極めて稀有な容姿の持ち主であった。
助けたのは年端のゆかない少年で、丁重に介抱し遇した。
その者に翼があったかどうかは定かではないが、地につながれる者ではなかった。
天人というものがどういう人々であったのか、詳らかではない。ただ、むあの地に属さぬ人々ではあった。
少年は鍛冶師の弟子だった。
金床の唄を聞き分ける耳を持ち、玉鋼の欲するところを知る目と腕を持っていた。
すなわち、職人であった。
少年も師匠も、彼が一方ならぬ稀代の刀鍛冶になるだろうと考えていた。その通り、少年は若くして師匠を越え、かつてないほどの名人となった。
その間、どういうわけでかその者は少年のもとにおり、いつしか少年もそれを欲するようになっていた。けれど、その者がむあの地に繋がれぬゆえ、いずれは去ることも分かっていた。
名実ともに手に入れる頃、少年は若者となっていた。
その時、彼が考えたのは、その者を留めるための、地につなぐための方法。たとえば、天を飛ぶために二枚の翼が必要ならば、その片方を切り落とすだけでいい。
その者はむあの地の理には縛られないが、別の理につながれている。
およそこの世に生きるもので理に縛られないものはない。
そして、彼はそのための刃を鍛えた。
若さゆえか、自分の欲と愛の区別がつかず、何が正しいかを考える術をもたなかった。
そうして鍛えられたのが、片羽の太刀。
常ならぬもの、おのれの思うままにならぬ理に背き、理を切り捨てるための刃。
報いは勿論ある。
それを報いととるか、贖いととるかは当人次第。
そして彼は刃を振るい、天人と呼ばれたその者は、いかにしてか地につながれる人となった。しかし、むあの理にからみとらえたわけではなく、むあの地に在ってむあに属さぬ存在であった。
理をねじまげた報い、常を脅かした報い。
それは刃を振るい、振るわれたもの、両者にふりかかる。
若者は天人を妻としたという。
しかし、その実はどうようなものであったのか。
それは定かではない。
報いはやがて両者を歪め、ついに再び刃は振るわれることとなる。
その時、太刀を手にしたのは天人であった。
その刃を受けたのは、むあの者。
その結末は詳らかではない。
報いは大きかった。
どちらかは生を失い、どちらかは死を失った。
最初に太刀が振るわれたときに、彼らの理はすでにねじけていた。
ねじけた理は途切れ、裂け、彼らを刺し貫いた。
むあの地は沈み、中つ海が生まれ、その者たちは生死の混沌たる狭間におちた。
真の生なく、またその延長たる死しかない地。
その地を高旗という。
真の死を失った者たちは、影を失いまなの各地に四散したという。
了