表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昔日の影  作者: 苳子
6/12

明さまの木


 私は村長むらおさのお屋敷で育ちました。

 私の母は、長の末娘の乳母でした。

 末娘の名は由宇那ゆうなといいます。三人娘の末で、二人の姉君とはずいぶん年が離れていました。

 由宇那の母はお年を召してから末の子を授かり、そのお産がもとで亡くなったそうです。

 私は乳母子として、由宇那と共に育ちました。

 生まれた日も幾日も違わなかったそうです。

 物心つく頃には、すでに私に父はありませんでした。

 母もこの里のものではないそうです。

 どのような所縁で母がお屋敷にご厄介になるようになったのか、私はついに知ることはありませんでした。

 お屋敷のものはもちろん、里の者も誰一人教えてはくれませんでした。

 あとでようよう考えるに、お屋敷の方々は知っていて口を閉ざしておいでだったのでしょう。けれど、里人はなにも知らなかったのではないでしょうか。

 母と私のことは、里の人々にとっては不可解なことだったのかもしれません。

 由宇那は長の娘ということで特別扱いされておりましたし、私は彼女と姉妹のように育ったためか、ただの村娘のように分け隔てなく接してもらうことはついにありませんでした。

 始終、私と由宇那はともにありました。

 それでも、ごく稀に一人で里を歩くこともありました。そういう時も、親しく声をかけてくれる里人は一人とてありませんでした。

 私はそれを淋しいとも、不審なこととも思いませんでした。

 由宇那さえいてくれれば、私には十分だったのです。

 私たちはいつも一緒でした。まるで双子のようだと長は笑い、母は穏やかな顔で見守ってくれました。

 私たちがまだ幼いうちに、由宇那の姉君たちは相次いで嫁がれました。嫁ぎ先は近在のしかるべき家柄ばかりでした。

 一人残された由宇那は、淋しそうな素振りは見せませんでした。

 物心つく前から同じ褥で眠り、明け暮れを共に過ごしてきた私たちです。

 私にとって由宇那はお屋敷のお嬢様でもなければ、姉妹でもありませんでした。私が影なら、彼女がそのもとの身であるように、己以上に大切な存在でした。

 由宇那なしの日々など考えたこともなく、別れて暮らす日がくることなど想像も出来ませんでした。

 そんな娘を見越したように、母は私に囁きました。

「由宇那さまを必ずお守りするのよ。それができるのは、あなただけなのだから」

 当時は心がけのようなものだと思っておりました。

 今思えば、そのようなものではなかったのです。

 言葉どおり、彼女を守ることが出来たのは、私だけだったのですから。

 ただそれが、母の意向に沿うものであったのかどうかは、今となっては分からぬことです。


 あれは私たちがいくつのときのことだったのでしょうか。

 おそらくは六つか七つになっていたと思います。

 好奇心旺盛で、そろそろ自分の足で遠出もできる年頃でした。

 誰からその話を聞いたのか、それはもう覚えていません。

 里の者ではなかったのでしょう。母や長が話してくれるわけもありません。

 おそらく、お屋敷のお喋りなかしあたりが話してくれたのでしょう。

 里の北には里を見守るようにそびえるお山がひかえています。なだらかなお椀を伏せたような形で、優しい母のような穏やかな山容すがたのお山です。

 その中腹に、明さまの木があると聞いたのです。

 明さまの木。

 明さまとは誰なのか、お屋敷の人は誰も知りませんでした。

 ただ、その木の話を聞いた私たちは、どうしても行かなければならないと思ったのでした。

 明さまの木は、由宇那の母親の形見でもある、蒔絵の櫛のようだと聞いたのです。

 幹も枝も葉も、常の木々とは違うという話でした。

 話を聞いた翌日のことだったのではないかと思います。

 私たちは前の夜に相談して、朝早くからお山へ出かけることに決めたのです。

 長と私の母には、ただゆっくり花摘みがしたいから弁当を作って欲しいと頼みました。

 夜半に雨がふったことを覚えています。

 予定通り出かけられるか不安で、耳をすませていたことを今も覚えています。

 朝には綺麗に晴れ上がりました。

 計画通り、弁当持参でお山に入った私たちは、散々道に迷った末、夕刻になってようやくたどり着きました。


 山の中ほどに、その木はありました。

 杉の古木ほどの幹をもち、その四方には昼なお暗いほどの影がおちておりました。

 八方へのばされた枝も太く、すべすべとした笹の葉のような形の木の葉がみっしりと茂っておりました。一条の光も通さないので、木陰はいっそう濃く落ちるのでしょう。

 日がささないためでしょうか。木の下には草一本はえず、落葉が厚く地面をおおいかくし、幹の下には碧玉のごとき艶を帯びた苔にびっしりとおおわれておりました。

 その木の名は分かりません。

 同じ種類の木はおろか、似たような木もありませんでした。

 その木の幹は琥珀のような艶をもち、流れるような形の葉はまじりっけのない水晶のようでもありました。


 私たちはそれからも頻繁に明さまの木を訪ねました。

 それは、最初に見た、あの瞬間が忘れられなかったためもあったのでしょう。

 

 明さまの木はお山の西側にあります。

 初めて訪れたその日から、夕暮れ時にわずかに日差しの届くだけの、日当たりの悪い場所でした。

 実際にはその黒々とした木の茂みにそれは遮られ、私の知る限り、日のさしたことは一度としてありませんでした。  

 明さまの木。

 麓からお山を見上げても、どのあたりに明さまの木がどこにあるのかは分かりません。

 見るからに異様なお姿ではありません。

 それでも近寄れば、あたりの木とはまったく異なる容子であることは一目で分かります。

 幹だけでなく葉の一枚一枚に至るまで、滑らかな硬質の艶を帯びております。

 お屋敷で見せていただいたことのある、雅やかな七宝や蒔絵のお道具のことをいつも思い出します。

 由宇那はこうたとえました。

 幹は琥珀、葉は碧の瑠璃か玻璃のようね、と。

 私と由宇那の二人でしても抱きかかえられないほどの幹です。

 その幹もなんとも不可思議な具合でした。

 直接刺しこむ光は一条もありません。にもかかわらず、幹はあわく透きとおります。

 琥珀の光に輝くわけではありません。

 まるでそこに日がさしているように、木漏れ日でもこぼれているような具合なのです。

 葉叢はみっしりと日を遮っておりますが、葉そのものを透かして光はこぼれてくるのです。

 本当にごく淡い、絶入るばかりの夕暮れを透かしたような、朧な光です。

 とりわけ、雨上がりの夕刻の美しさは、生涯忘れることがないでしょう。

 初めて訪れたときも、夜半に降った雨で潤っていました。

 苔はしっとりと水を含んでいっそう艶を帯び、まことに碧玉を砕いてまいたように耀きます。そこへ幹と葉叢がいっそう艶やかに透きとおり、まるで光を放っているようですらありました。

 夜の帳が一足早く訪れる木の闇。

 世界をつつむやわらかな紗のような、仄闇。

 夢と現のあわいに佇んでいるようでした。

 それから長じるまでに、明さまの木を何度訪れたのか知れません。

 そんな私たちですら、数えるほどしか目にしたことはありません。

 そのような瞬時ときに、そのかげは見えるのです。

 時そのものがこの木という形をとって、そして古びていったようでした。

 古色を帯びた時の流れがそこにとどまって、それ以上色あせることもなく、その旧い流れを微睡みのなかに抱き続けているような。

 その旧い思い出が束の間甦るような様でした。

 幹の中ほどに細い姿があらわれ、やがて人型をとったかと思うと、横顔が浮かび上がります。

 琥珀の時のなかで彷徨うておられるような、道を失い途方にくれておられるような容子でした。

 いつか、お屋敷で見た屏風に描かれた神々のお姿。それを描いた絵師の手によるような、鮮やかな一筆ひとふでを思わせるお顔。

 絹を思わせるお召し物の裾が翻り、一つに結われた髪がその肩と背を滑ります。

 瞬きをするほどの、本当に束の間のかげでした。

 まことに旧き時の残影なのでしょうか。

 それとも昼と夜のあわいがみせる幻にすぎないのでしょうか。

 稀に目にするそのお姿に、由宇那も私も幼き頃から心を奪われておりました。

 それが幻であろうとなかろうと、真の相はそのようなこととは無縁であるようにも思われました。

 明さま。

 あのあわいのかげが、明さまなのでしょう。

 そして、明さまの木。

 私たちがこの木に近づくことにも、良い顔をする人はありませんでした。


 私たちが明さまの木に足繁く通っていることは、早々に母と長の耳に入りました。

 二人に呼び出された私たちは、当然叱られるものと思っておりました。

 先に噂を聞きつけたお屋敷の年寄りに、二度と行くんじゃないと窘められたばかりでした。

 どうしてそのように言われるのか、私たちにはついにわかりませんでした。

 ただ、褒められたことではないということは、なんとはなしに察せられました。

 由宇那は年寄りに何故と詰め寄りました。

 年寄りはただ首を横に振るだけで、二度といってはいけないと繰り返すだけでした。

 そして、母と長に呼び出されたのです。

 お屋敷のお座敷は、お客さまだけが通される、私たちには縁遠いお部屋でした。

 そのお座敷に私たちは呼ばれました。

 幼い頃は、人並みに悪戯がすぎたり、調子に乗りすぎてまわりに心配をかけてしまったりと、懐かしくも微笑ましくもある失態は数知れませんでした。

 そのつど、まずは母に叱られ、それで不足だと判断されると長に叱られました。

 それでも、それは囲炉裏のある居間であったり、由宇那と私の暮らす離れの一室であったりしました。

 お座敷に呼ばれることは一度としてありませんでした。

 それだけに、よりいっそう私たちの不安は膨らみました。

 明さまの木に近づくことは、それほどまでにいけないことだったのでしょうか。でも誰も、いけないことだとは教えてくれなかったのです。

 私たちはいたたまれない心地でお座敷に上がりました。

 長は床の間を背にして座っておられました。

 母はその下座に静かに座っておりました。

 二人は浮かない顔でした。

 私たちをみて束の間目を見合わせましたが、じきに長の咳払いでそれまでの雰囲気は払われてしまいました。

 私たちは母に促され、お座敷の下座に並んで座りました。

 本当ならば私は控えて座らなければならなかったのでしょう。ただ、それを由宇那は認めませんでしたし、私にもそういう心がけはできていませんでした。それを強いる人もありませんでした。長は私を由宇那の双子の妹のように扱ってくださいました。

 だからといって、乳母子の己の立場は物心がつくころから少しは弁えていたように思います。

 出すぎた真似や、己の立場をわすれた振る舞いをしたことはなかったとも思います。

 長は言葉少なに、噂は本当かと尋ねました。

 由宇那はいやにきっぱりと認めました。

 長はため息をつき、母に言葉を求めるような目配せをされました。

 母は無表情で黙しておりましたが、長の視線を受けると、静かな目でまずは私を見て、次に由宇那を見ました。

 そして、なにもいわずにただ首を横に振りました。

 長はそれを見て、深いため息をつきました。

 私たちはなんのことか分からないまま、目を見合わせたのでした。

 あの時の、長と母のこのやりとりの意味が、今となってようやくわかるような気がします。

 事はすでに決しており、長が気づいたときにはとっくに手遅れだったのです。

 それを禍とみなすか、幸とみなすか。

 すべては私たちしだいでありました。


 その日の夕刻。

 由宇那は、久しぶりに里帰りした姉君たちと水入らずのときを過ごしていたのではないかと思います。

 縁側で一人ぼんやりしていた私のそばに、いつのまにか母が座っておりました。

 同じようにお山を眺めつつ、そっと私の頭を撫でてくれました。

「千歳、あなたはなにを見たのです?」

 母は私に冷たかったわけではありません。由宇那と同じように、贔屓も区別もなしに接してくれました。

 それでも稀に母子二人きりとなると、乳母でも母でもない、どこかで一線を引くような容子であることが次第に増えておりました。

 私はそれを不満とも、淋しいとも思いませんでした。ごく当たり前のことと思えたのです。少なくとも、私と母の関係は、常と変わりなくある必要はないように思われました。

 私は母を見ました。いつものごとく、穏やかで、どこか冷ややかな表情でした。

 後に、由宇那が春の陽だまりと、対である私が凍る冬の朝とたとえられるようになったのは、この母の表情を受け継いでいるからかもしれません。

「かげを見ました。長い髪を後ろでひとまとめに束ねられ、お召し物は絹だったのではないでしょうか。両方の袖が長くて、腰の辺りまでありました。それに、たいそう綺麗なお容子すがたでした」

「そのかげはどうしておいででしたか?」

「私がお見受けしたのは横顔だけです。ゆっくりと地面から目を上げて、やがて空を眺めておいでのようでした。本当に束の間のことでした」

 母には何一つ隠さずに話さなければなりません。

「ちらっとでも目は合いませんでしたか」

「私たちに気づかれた容子も、あたりを把握しておられるようにも見えませんでした」

 母は考え深げな表情で、私から目をそらし、お山を見上げます。

 私もお山を見上げ、そして母をもう一度見ました。

「あのかげが、あかるさまなのですか?」 

「ええ、おそらくは……ただの影に過ぎぬのか、本つ身なのか、確信はもてませぬが」

 母の目には、迷いがあるように見受けられました。いつも毅然としているのに、本当に珍しいことです。だからといって、それを不安と感じることはありませんでした。

「どちらにせよ、あの方が私たちの半族なのですか?」

「それもまだ分かりません」

 母はいつもの穏やかな顔に戻っておりました。

「あせる必要はありません。見極めることが大切ですよ」

「……由宇那にも見えたようです」

 それは確信でした。

 夕暮れのあの時、ついに私たちは言葉を交わさず、今に至るまで一言も話題にしたことはありません。

 それだけに、確信はいやでも高まるのです。

 沈黙が、これ以上はない雄弁であることを、私はひしひしと感じておりました。

 由宇那は黙し、私も語る言葉をもちませんでした。

 そのくせ、私たちは一緒に明さまの木をおとなうのです。

 私の顔いろを見るまでもなく、母も勘付いているようでした。

「ええ、そのようですね……困ったこと」

 母の面には未だに迷いの名残が留められていました。

「ひとつ、おうかがいしてもよろしいですか?」

 私が自ら発問をすることは稀です。母は小さくうなずきました。

「由宇那にも見えたということは、一族の血を引いているのですか?」

 一族の記憶は少しずつ甦っていくものです。そのころの私は、つじつまの合わない記憶の欠片に振り回されるだけでせいいっぱいでした。  母はそれこそ困ったわねという表情を浮かべました。ただそれは切羽詰ったものではなく、半ばおどけているような、明るいものでした。

「あなたの記憶はまだまだ虫食い状態なのね……里の要となる長の家には、多少なりともわれらの血が混じっているものです。難しいのは、その筋がはっきりしないこと。一つの筋ではなく、いくつもの筋の血が絡み合っていることも珍しくない。本来の意味合いで言えば、それは悪いことではないのよ。むしろ、大切なことです」

「私たちの一族の筋はあきらかなのですか?」

 母は驚いたように私を見ました。それは後にも先にもこのとき限りだったかもしれません。

 当時の私の記憶はあまりにも斑でした。それがとても不安だったのです。

「あなたはまだ幼い。一族の記憶はまだ微睡んでいるようなもの。それでも確かにあなたは記憶を持っているでしょう。それこそが一族の証です。筋が混じれば、力は受け継がれても記憶は途絶えてしまうのですよ。不安に思うことは仕方ないけれど、心が間違いだと告げない限りは信じなさい」

「いつになれば全て思い出せるのですか」

「時がたてば自然に思い出せます。もし火急の事態に陥れば、瞬く間に記憶は目覚めますよ」

 母は静かに言い切りました。それは確信してのことのように聞こえました。

 わけはいずれ分かるときもくるでしょう。私の血は「それは正しい」と告げていました。

 私はそれ以上の言葉を飲み込みました。

 私たちは揃ってお山を眺めました。

 黄昏も遠ざかり、山襞は紺と藍にけぶる影を抱きつつありました。

 お山の頂を照らすように、北の星が燈ります。あの星は、あのころも変わらずにあったのでしょうか。

 母に問いかけようかと思いましたが、口をついて出た言葉は違うものでした。

「由宇那が同じ筋かもしれないということは、考えてもいいのですか?」

 母はかすかに呆れたように私を見て微笑みました。

「つまるところあなたにとって一番大切なのは、由宇那さまなのね」

「はい」

「今は考えずにおりなさい。いずれの筋であれ、長の血筋は半ば同族だといえますからね。ただし、それは彼らの知らぬことでもあります」

「半族ではないのですね?」

 母は悲しげな溜息をもらしました。

「わたしたちの半族は欠けています。それは彼らの罪咎の報いです。そして私たちにも報いはあった……いずれ思い出すことです。今は考えずにおきなさい」

「……近頃は、あの日のことばかり夢に見ます」

 私は目を伏せて小さくつぶやきました。

 母は私の頭をやさしくやさしく撫でてくれました。

「悲しいことだけれど、昔日のことです」

 その声は、優しく厳しく、そしてむなしく響きました。


 私たちが通ったのは、もうひとところありました。

 里には染師の工房がありました。

 お山の麓には、湧き水のわきだすところがいくつかありました。そのうちの一つが泉をなしていました。

 工房はそのほとりにありました。里人の集落からは少し離れておりました。

 染師は尾花殿といい、近隣の邦々(くにぐに)にまで名の知れたお人です。

 お山に通いはじめて間もなく、私たちは道を失い、途方にくれておりました。日は徐々に傾き、夜が近づいてくることだけは分かりました。

 染めそめぎをとりにお山に入っていた尾花殿に行き逢い、助けていただいたのです。

 私たちが道に迷っていたのは、お山の中腹だったそうです。明さまの木とはずいぶん見当違いの場所にいたそうです。

 すっかり疲れ果てていた私たちに、尾花殿はまず工房でお茶をふるまってくださいました。それはお屋敷ではついぞ口にしたことのない、深い香りのお茶でした。

 夕刻とはいえ夏のこと、日は長く、まだ明るいころでした。

 ようやく人心地を取り戻すと、由宇那は急に工房の中に興味を示し始めました。

 大麻、苧麻ちょま、木綿、そして絹。

 壁や天井の梁から無数に吊るされた、色とりどりの糸。

 ひとつとして同じ色はありませんでした。

 色の種類だけでなく、深さ、軽やかさ、光沢、艶、そして香気すらまとっていてもおかしくないような、芳醇な色の洪水。

 この人はつかさなのだと確信した瞬間でもありました。

 己の望むいろ、望まれるいろを万象に見出し、現出させることのできるのが職です。この確信も一族の記憶ではありましたが、目の当たりにしたその瞬時ときの心象までも受け継がれるわけではありません。

 由宇那でなくとも、目が離せなくなることはやむを得ないことでした。

 俄然興味を示した私たちに、尾花殿は丁寧に、そして楽しそうにひとつひとつの色の束について語ってくださいました。

 微細ないろの違いが分からなくなることになってようやく、私たちは日が暮れてしまったことに気がついたのでした。

 尾花殿はお屋敷まで私たちを送ってくださりました。

 その一度きりのことで、由宇那は染物に心を奪われてしまったようでした。私もその豊かな色の世界に惹かれました。

 由宇那には猫の仔のように気まぐれで、気の散じやすいところがありました。それは娘盛りになっても変わりません。 

 そのくせ、ひとつのことにこだわり始めると、私ですら呆れるほどにとことん極めようとするところもありました。まるで憑かれているようだと、尾花殿が呆気に取られるほどでした。それゆえに、日ごろは気が散漫なのかもしれませんが。

 天賦の才があったのでしょうか。

 由宇那は娘盛りになるころには、すでに一人前と認められるほどとなっていました。

 尾花殿は、由宇那の目はそこにあるもののその奥までとらえ、その手はそこに潜んでいるものを招きだすようだと呟いておられました。

 表にあらわれる形象だけでなく、それを作り上げている素のひとつひとつまでをも見透かしているのだろうかと。

 私は黙っていました。

 尾花殿に勝るつかさの才は、由宇那の血が間違いなく私と同じ民のものでもある証でもありました。ただのまな人の持ちうる才の限りを越えています。

 由宇那の筋は依然分かりませんでした。

 同じ民の間であってさえ、筋が交われば記憶は失われます。まな人と交わると才も失われることが多かったのですが、まるで潜んでいたかのように、はるかに世代を経てからあらわれる事も珍しくはなかったのです。

 娘盛りを迎えるころには、私も全てを思い出していました。

 だからといって、疑問がとけるわけでもありませんでした。

 何故、筋がまじると記憶は失われるのでしょうか。何故、才だけは受け継がれるのでしょうか。

 一族の記憶は、私たちにとっては拠り所であり、重石であり、報いの証であり、それゆえに自重を促す大切な役目を担うものです。

 私には、一族の記憶と才は揃ってこそ意味があるように思われました。   

 何故、記憶だけが失われるのでしょうか。

 そして、その理由を知る人もないのです。

 

 年頃を迎えても、由宇那にも私にも縁談はありませんでした。

 少なくとも由宇那にはいくつか話もあったようですが、長がすべて断っておられたそうです。

 長には跡を継ぐ男子がありませんでした。常ならば、末の娘である由宇那が婿をとるのでしょう。しかし、早いうちから、嫁いだ上の姉君がお産みになった二番目の男の子に跡を継がせることに決まっておりました。

 あの座敷に呼ばれた幼い時に、すでに行く末は決まっていたのです。

 長も母も腹をくくっていたのか、静かに時が至るのを待っているようでした。

 やがて、私も記憶が詳細になるに従い、心積もりを整えてゆきました。

 ただ、それがいつになるのかは誰にも分かりませんでした。

 時が至らずにすむこともあったので、それを祈る心もありました。

 けれどそれではいけないのです。

 いずれ報いは受けねばならず、罪はあがなわねばならないのですから。


 秋も深まったころでした。

 尾花殿の工房で、由宇那は染め上がったばかりの絹の糸をしげしげと眺めておりました。

 由宇那は桃染つきに染めた糸を一等好みました。

 色白の頬はいつも明るく染まり、唇も紅をはいたようにほんのり色づいていました。とりわけ染が見事に仕上がったときには、丸い顔でころころと笑うのです。

「私、お嫁入りのときには、こんな色の絹をまとっていくのよ」

 明るく穏やかで、そのくせ軽やかな桃染つきの色はまことに由宇那に似合いました。

 そして由宇那は私に微笑みます。

「千歳には本当は千草色が似合うのだけど、お嫁入りにはもっと華やかな色でないとね。きっと鴇羽ときは色が似合うわ。落ち着いていて上品な赤よ。私が染めてあげるから、これは約束」

 そして私の小指に由宇那の小指をからめました。

 私たちにそんな時はおそらく来ないでしょう。それは由宇那も分かっていたはずです。

 年頃になっても、私たちの間で嫁ぐということが話題になったことは一度もありませんでした。

 それなのに、由宇那はまるで二人ともに話が決まっているかのように、楽しげな容子でした。

 私は黙って答えませんでした。

 ただただ哀しかったのです。由宇那がどこまではっきりと気づいているのか、見当はつきません。

 分からないなりに、なにかを感じ取っていたのでしょう。

 由宇那は強引に指切りをすませてしまいました。私が無言でいることも、承知のうちだったのかもしれません。

「次は鴇羽色の糸を染めるわ」

 彼女はすこし急いでいるようでした。

 そう、時は少しずつ近づいておりました。それすらも由宇那は気づいていたのです。

 私は哀しくてうつむきました。

 由宇那の手は私の手に重ねられておりました。私が視線を落とすと、由宇那の指先に力がこもりました。

「私たちはずっと一緒よ」

 楽しげな呟きは、何故だかずんと私の胸の深いところにささったのでした。


 冬はいつもより早く訪れました。

 最初に白く染まるのは、お山の頂です。それからしばらくすると、里も白く染まります。

 ただ、穏やかな里のこと。雪が深くなることはなく、雪のない日々が続くことも珍しくありません。

 それでもお山の雪は深く積もります。

 明さまの木のある中腹にも雪は積もり、日当たりの悪さゆえに頂よりも深いことすらありました。

 長い冬ではありません。それでも、その間はなかなか明さまの木をおとなうことはできません。

 頂が白く染まった朝。私たちは寝所の縁側から、夜着のままそれを確かめました。

 いつものことに、特に会話は必要ありませんでした。

 手早く着替えをすませると、寒さに備え分厚い毛皮も手にして、お屋敷を出ました。

 そのころには、咎めるものは一人もありませんでした。

 長にお座敷に呼ばれたあの日から、お屋敷の人々も見てみぬふりをするようになりました。

 よく晴れた朝でした。

 身を切るような冬の朝の日差しに、空は高く澄んでおりました。

 はるかに高いところを渡っていく風の音すらも、聞き分けることができました。

 山道にも霜柱が立ち、一足ごとに足元からくぐもった音が聞こえました。

 それを由宇那は好んでいました。わざと早足で音を続けて立てると、声を上げて笑います。

 冬のお山は冬枯れで日がさしこみやすく、朝早くてもずいぶんと明るいのです。

 獣たちは日の出と共に息を潜めるか、次の春までの永い眠りについております。

 冬のお山の朝は、特に雪が降ると音が吸い込まれるので、なおのこと森閑としております。

 その静かで明るい朝の、木立の向こう側へ吸い込まれるように、由宇那の笑い声は響きました。

 日が高くなるころに、ようやく明さまの木のところにつきました。

 あたりはうっすらと白くなっていました。

 明さまの木だけは、あたりとは切り離されているように見えました。

 いつもは薄暗く、苔はつややかにひそかな光を放つように根元を覆っています。

 この日は、まるですでに夕刻であるかのように、全体が光を放っていたのです。

 梢には碧の燐光があふれ、幹は琥珀に透きとおっていました。

 いつも木を覆っていた、紗の幕が剥ぎ取られたようでした。

 明さまの木は生きていました。

 そう、当然です。地面を覆う落葉は木から落ちたもの。根元を覆う苔も、明さまの木でしか見られないものでした。

 私たちは誘われるように、木のそばまで歩み寄りました。

 幹は郷愁を誘われるような、古のいろにかがやいていました。

 私の眼前に失われたはずのあの日の光景が閃きました。

 束の間の出来事でしたが、まるで実際にこの目にしたように、鮮やかな一瞬でした。

 天が裂け、地が割れ、水と風が逆巻き、すべての理が大きく切断されていく様。

 思わず呻いて顔を両手で覆ったその瞬間とき、由宇那の声がしました。

「千歳、千歳」

 耳元で囁かれたよりももっと近く、身のうちにじかに響くような由宇那の声。

 驚いて顔を上げると、そこには琥珀の光がほどけはじめていました。

 明さまの木はその姿を失いはじめ、かわりにその真ん中になにかが顕れようとしていました。

 はじめは朧な影でしたが、しだいにその輪郭を確かなものとしていくのです。

 私は少しずつ後じさっていました。なにかを意図してのことではありませんでした。ただ、心が何故か激しく波立っていました。

 木の姿がとけ、人の姿へと変じていきます。それが誰なのか、もう分かっていました。

 じりじりと私は後ずさります。

 まだ幼い子供の姿がそこにありました。

 琥珀色のなかに浮かんでいるようなのに、その姿は髪の一本の艶まで手に取るように感じられるようでした。

 後ろで束ねられた髪は腰まで届き、ゆらゆらとうねっています。お召し物は白絹のようでした。長い袖がこれも風に吹かれるように揺らいでいます。

 そして、そのお姿は正面をむいておられました。

 白い顔をやや伏せるように俯かれていましたが、いつか見たようにゆっくりと髪がすべり、面が上がり……

 名人の手による人形のような容子でした。

 すべて小作りな造作で、上品に整っています。

 長い睫が影を落とし、その唇はかたく結ばれておりました。

 そして、その前に立つもう一つの影あったのです。

 私は息を呑みました。どうして今まで失念していられたのでしょう。

 それは由宇那でした。

 私はその名を叫びました。少なくともそのつもりでした。けれどそれは声にならず、湿った空気が喉をぬけただけでした。

 由宇那は振り返ってにこりと笑いました。それはまっすぐに私に向けられています。

 私は声一つたてられないのに、由宇那は自分の意志で動いているのです。

「千歳」

 由宇那は私の名を呼びました。

「……っ」

 私は涙と声を飲み込みました。

 明さまの伏せられていた睫がかすかに動きました。息をのむ私の前でそれは少しずつ動き、そして。

 目を瞠る私に気づいたように、由宇那は明さまに向き直りました。

 同時に、その眼が開かれるのを私は見ました。

 それはうろでした。琥珀のような、漆黒のような、永久とこしえの闇。

 眸はありませんでした。切れ長の、二重のくっきりとした虚。にもかかわらず、それが由宇那を見つけたことにも気づきました。

 結ばれていた口元がにいっと動きました。

 その微笑みは禍々しくも、神々しくも見えました。

 なにかが、空気が、世界が、なんとも知れないものが歪み、裏返るような感覚が襲ってきました。

 これは、あの時の、むあが失われたあの日の感覚に似ていました。

 なにものかが私の中に入り込み、耳元で誰かの名前が呼ばれました。それは本当にかすかで、聞き分けられませんでした。

 全身を引き裂くような苦痛とも不快感ともつかぬものが駆け抜け、そして瞬時にそれはおさまりました。

 声を上げるかわりに顔を覆って目を伏せた私は、すぐに由宇那を思って目を開けました。

 そこはいつとも変わらぬ明さまの木がそびえ、そこにはなにも、誰もいなかったのです。

 私はふっと微笑みました。そんなつもりはないのに、笑みが浮かんでくるのです。どうしようもありませんでした。

「早まりましたね。あなたの半族は私だったのに、なにをそれほど焦っておられたのですか?」

 くつくつと、憫笑が湧き上がってきます。

 わたしはなにがおかしいというのでしょうか。

「あなたの筋はじりものですから、分からなかったのも無理もないのかもしれませんわね。由宇那は私の筋ではなかったのですよ。私の一族に、染物のつかさの才はありませんもの」  

 笑いはなかなか収まりませんでした。

 役目を果たした達成感と、憐れみと、そして自身をも嘲る思いがこみ上げて、果てないのです。

 

 やがて、必ず、報いはある

 罪は、購われねばならない


 笑っている私は誰なのでしょう

 嗚呼、なにもわかりません……



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ