影人形
真影をあつめよ
されば本つ身も甦ろう――
「ひとつ、お願いしたいのです」
女は、工房の入り口の隅にうずくまり、根が生えたように動かなかった。
衣は玄、髪をつつむ頭巾も玄。頭巾の端が額のあたりから垂れ下がり、横顔を隠している。
衣の裾は土間につき、手は長い袖におおわれ、見える肌はひとところとしてない。
「ひとがたを」
「私は人形師です」
「ひとがたも、人形も、根は同じことでございましょう」
水中で息を吐くような、鈍くくぐもった笑い声が洩れる。
工房の奧で木地を削りだしていた男は、その手をとめた。
「つまらぬことにかかわるつもりはない」
「形代としてのひとがたを作っていただきたいのです。その後はあなた様の与り知らぬことでございましょう」
「形代を作るような技量は持たぬ」
「影をうつす腕をお持ちなら、易しいことでございましょうに」
ゆかしい方じゃと呟いて、女はわずかに笑った。頭巾の垂れ布が揺れ、その影から一瞬目がのぞく。それは光を帯びていたようにも見えたが、障子越しに射し込む光のせいかも知れなかった。
「なんのことか分かりませぬ」
「真澄どののこと。あの見事な技はこなたさまの技でございましょう」
男は半眼になり、深く息をついた。
「おうけしましょう」
「では、よしなに」
女はそう答えると、静かに立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
その拍子に垂れ布がふわりと揺れた。白陶器のごとき横顔がちらりとのぞく。血の筋が透けて見えるような白さながら、温もりはまるでないような、正しく陶磁のごとき肌。
人形師は工房の片隅で、壁にもたれかかり項垂れていた。
足を投げ出し、眠っているようにも見えるが、その目は開かれている。
瞬きもしない。死んでいるのかといえばそうではなく、瞳がわずかに動いている。
その傍らにうずくまるようにしてある、一塊の影。
黒い襤褸布を丸めたようにも見えるが、影の上方にある二つの眼と思わしきものがせわしく動いている。
陽は傾き、世界は茜色に染め上げられている。
工房の窓の障子もあざやかな朱に染まり、切り絵のごとき庭の樹影がうごめいている
「約束の期日でございますよ」
入り口に玄装束の姿があった。
いつの間に入り込んできたのか。
男はまったく気づいていないようだったが、驚いた様子もなく、億劫そうに顔を上げた。
ぎょろりとみひらかれた目は血走り、紙のように乾いている。
依頼人を一瞥する眼光は、異様に鋭い。
「できている。持ち帰るがいい」
その言葉を待っていたように、依頼人の影が動く。
音も気配もなく、陽のうつろいと共に動く影のようであった。
人形師の足元で、それはとまる。
玄の衣に玄の頭巾。依然と寸分かわりない姿であった。やはり垂れ布が顔を隠している。
玄ずくめの女は、突っ立ったまま人形師の足元の、黒い塊を見下ろしている。
それはまるで紙をちぎって丸めたかのように薄っぺらで、その輪郭は布の端のようにほつれ、縮れている。のぞき見える眼だけが、奇妙な奥行きと立体感をもっているようにみえる。
「さすがは名高い羽澄さま」
穏やかな声は、満足げでもあった。
「このようなもの、なんとする」
「こなたさまは、何をお知りになりたいのでございますか?」
くくっと笑いを押し殺したような口ぶりで、反問する。
人形師は、今にも燃えつきそうな光の宿る眼差しで女を見据えた。
「このようなものだと分かっておったら、引き受けはしなかった」
「左様でございますか、残念ですこと――このように感服しておりますのに。けれど、その悔いもそう長くはございませんわね」
「ああ、そのようだ――真澄を護るつもりが、裏目に出た」
それきり、人形師は力尽きたように肩をおとした。
「こなたさまの魂はもういただきました。さすがは稀代の人形師。ただのまな人とも思えぬような」
女はわずかばかり感心したように呟き、人形師の抜け殻を見下ろす目を細める。
人形師の体はたちまち冷えていく。
髪の先や鼻先にも氷柱が垂れ下がり、肌や衣のおもてからは冷気が微少な氷の粒となって立ちのぼる。土気色の肌のおもてにも薄く氷の膜が張り、ほどなく人の形をした氷塊となり果てる。
女は屈んで、その塊にむかってふっと息を吹きかけた。
冷涼たる朗々とした音が、氷塊の表といわず中にまで韻きわたり、次いで音の消失と共に霧散する。
あとにはなにも残らない。
女はそれっきり関心を失ったように、何事もなかったように立ちつくしている。
やがて、女のその足元で、影絵のような黒い紙屑のごとき塊がむくりと動いた。
もはやその質感は紙ではない。
肉の塊の表に、黒い影がはりついている。黒こげとなり炭化した骸に脂がのり、ぎとぎとと光っているようであった。
見るだにおぞましいような質感をおびている。しかし、真におぞましいのはその眼。
白目にみっしりと網状に血管がはしり、今にも血の涙が滴りそうなほど。
その血のごとき眼球の真ん中に、これも脂ぎった色の黒目がぎらりとのぞく。
古びた血糊のごとき黒の虹彩が中央でぎとぎとと動く。血走った眼球は、瞼がないので眼窩のくぼみに丸まるとおさまっている。
それがぎらりぎらりと眼球ごと蠢き、そのたびに寒天のつまった小袋のようにふるえる。
今にもその眼はこぼれ落ちそうであった。
「おいたわしいこと。もうしばらくお待ち下さいな」
女は涙をこぼさんばかりの声で囁きかける。
そして蹲り、工房の片隅をじっと見据える。
室内は夜の気配に包まれつつある。片隅から闇が満ちつつある。
「さて、真澄どの」
その暗がりでかたりと音がする。
「兄上はもう逝かれましたよ」
物鳴りはやがて家鳴りへと大きくなる。
ぞろりと空気が動き、急速に暗くなっていく。その夕闇のなかにふわんと小さな影が横切った。
女の前にあらわれたのは、小さな影。
真っ白な肌に、闇の髪をもつ、小さな人形――しかし、その肌は陶磁のようではなく、ましてや木地のようでもなくそれは、確かに微かではあるが息づいており、温もりが伝わってくるよう。
かっと瞠られた双眸は描き込まれたものではない。玉眼ですらなく、わずかに充血さえしている、やわらかな目玉。
肩の長さで揃えられた髪も、伸び放題で不揃いに乱れ、もつれてさえいる。
生まれたばかりの赤子ほどの人形。その大人の拳ほどの小さな胸が、荒くあえぐように動いている。
「いくら真影を集めても、まなの輩はこの程度か」
女は嘲るように、憐れむように笑う。
人形は大きく口を開くが、そこからはかすかに空気の出入りする音がするだけ。
「それでもシロくらいにはなりましょう」
女は腰を屈めてその人形を手にとる。
人形はその瞬間、逃げようとするようにかすかに動いたが、呆気なく囚われた。
「大きさはともかく、仕上がりの見事なこと――けれど、所詮は羽澄どのもまな人に過ぎぬか。何事にも限りというものがございますようで」
女は手の中の人形をあやすように優しく声をかける。
人形は壊れてしまったかのように目を開き、口を開いたまま。ただカタカタと家鳴りだけが響く。
「さてや、見苦しいこと」
女は眉をひそめる。
黒の頭巾の下にのぞく顔は、夕闇に浮かび上がるように白い。
しみ一つ、傷一つ、皺一つない面。
艶もなく、ひびもなく、ただひたすらに乾いた印象の肌。
女のそれこそが正しく人形の、出来の悪い面のようであった。
口は大きく耳朶近くまでさけ、鼻を削がれたように鼻腔の虚がのぞく。
ただその目だけは、玉に霊を閉じこめたように、生気をのぞかせる。
いっそ神々しくすらあるほどに、その瞳はなにかをたたえている。
「カタがそれではお気の毒なこと。せめてこのワクをお使いなさいますか」
女の声に答えるように、それはぞろりと動く。床を油か古くなった血糊が流れるような、粘っこい動き。
それについていけなかったのか、目玉が一つ転がりおちる。
赤い紐のような肉の切れ端にぶら下がるように、目玉は揺れる。
目玉を失った片方の眼窩からは、これも血糊のような雫が一つ、二つ。
「お気に召せばよろしいのですが」
女はそう呟いて、人形を放る。
隙間風が吹き抜けるような音がして、人形は闇のなかに消えた。
黒い肉塊が小さく震えると、ふっと吸い込まれるように人形の姿は失せた。
「いかがでございます」
女は膝を折り、肉塊の傍らに侍る。
すぐにでも手をのばしたいのを堪えるように、両手の指を強く絡めている。
いつしか家鳴りはおさまっていた。
家の内にも外にも境は失せ、漆黒の静けさに呑み込まれている。
天なく、地なく、すべての堺はない。
女の気配すらなく、ただなにかが、ナニモノですらない、存在が蠢いている。
まなと、まなに属さぬすべてをも、喰らい尽くすように。
それは己まで喰らう。
そして、くうるりと、その存在が裏返しになった。
再び、人形師の工房。
外には夜半の月。
和えかな光に、木々の蔭がほのかに揺れる。
女は膝の上に三つほどの子供を抱え、微笑んでいた。
闇色の髪、雪白の肌、月夜の銀の光を宿す瞳。
肌は柔らかく温かく、髪もこぼれるように揺れ、瞳は暁闇に澄む泉。
「****さま」
これ以上愛おしいものはないというように、女は子供を抱き寄せる。
子供はなされるままに身を任せ、ただぽっかりと瞳を瞠っている。
なにも見ず、なにも話さず、なにも聴かず……
しょせんは、人形よな……
ナニモノかが、嘲るように、憐れむように、呟いた……
了