隠国(こもりく)
ふわりと青みを帯びた影が横切ったかと思うと、目の前に坐した姿があった。
すっと背筋を伸ばして居ずまいを正し、凛とした容子をとる。
「桔梗か」
「はい」
涼やかな余韻を残すような、澄んだ声が答えた。
縁側には、湯飲みを手に景色を楽しむ風情の老人が一人。
ちらりと振り返って声の主を一瞥した。
「縁の突き当たりに座布団がある。あてなさい」
「いえ、支障はありません」
「好きにしなさい」
老人はふっとおかしがるように口元を緩めた。
すっかり霜降りて銀となった髪が古老の風格を漂わせるが、その面にも肢体にも老いさらばえた気配はない。それでもその居ずまいからかもし出される雰囲気は、長い風雪を耐え抜いてきた旧い岩のような泰然としたものだった。
「高旗は初めてか」
「はい」
「どうだ」
「――すでに知っておりましたから」
ほんの僅かだが、躊躇するような素振を見せた。
「洸はいずこにおる」
「私のなかに」
「――そうか」
老人は湯飲みから一口すすり、小さく息をついた。そしてようやく横を向いて、桔梗を見やる。
白地に紺と縹色の花文様の衣をまとった娘は、不思議なほどの静けさを漂わせて、老人をまっすぐにみつめていた。
白皙の肌に、温和さと気難しさの気配をひそませたその面は、まだうら若い娘のもの。しかし、その眸に宿る光は底知れぬなにかを秘め、若さに満ちた迸るような輝きはない。
「知っておったとしても、その目でこの地を見るのははじめてだろう。戻ってきたのか、ようやく」
「……戻ってきたわけではありません。ただ、ご挨拶に……それに、やはり、この目で見たかったのでしょうか――高旗を」
「そなたは高旗の娘」
「――はい、なれど、高旗に属することもできません」
娘は老人にむかってかすかに笑んでみせた。
「それも承知している。そなたは高旗の娘ゆえにな」
「私は、高旗の娘……長、一つお尋ねしたき事が」
「なんだ」
「何故に、父と彼らの筋との縁を許されましたか」
長の目に愉快がるような光が宿る。
「それを質すために戻ったか」
「――はい」
「そなたはどう考える」
思いがけない言葉を耳にしたように、娘の目がわずかに瞠られる。はじめて垣間見せた感情の揺らぎだった。
「彼らはあやつらの半族です」
「ああ、だが、彼らは理のうちにある」
「なれど、われらは理のうちにはあらぬはず」
納得いかぬといいたげに、わずかに語気がとがる。長は安堵の笑みを浮かべる。
「われらにはわれらの理があった。彼らには彼らの理があった。それを破り、歪めたのは等しく同罪」
長は静かだが、厳しい口ぶりで言い切った。
「世が流れていく以上、理もまた変わりゆく。変わらぬものなどない……すでにむあが存在せぬように」
「私のことも必然であったとおっしゃるのですか」
「われらにとって、あやつらの半族である彼らは長く忌避すべき存在であった。その証として、洸以前にかれらとの縁を結んだものはない。洸がはじめてであり、同じ降矢の家の楓は守人と縁を結んだ。降矢の筋は職とも守人とも、高旗の他の家の者とすら、縁を結んでおる」
「父の意志によるものだったのですね」
「われらの意志でもある。高旗のものは一にして多、多にして一である」
桔梗はわずかに口元を歪める。
「高旗の血に、そして地に、新たな命を――それが高旗の娘のつとめ」
「われらの唯一の希望だ」
「私はつとめを果たせません」
「いや、果たした。今も果たしている」
怪訝そうに眉をひそめる娘に、長はねぎらうように優しい声をかける。
「そなたは先触れであった」
「先触れ」
「真の変化はわずかなものからはじまるものだ――そなたはそのはじまりであった。そして降矢の最後の者となる」
「やはり」
桔梗は深い息をついた。落胆と安堵が綯い交ぜになったような、複雑な表情を浮かべる。
「洸は還ってこなんだ。楓は戻ったが、その末のものは一人とて戻らぬ」
「――降矢の薬師は」
「還ってこぬが、かわりに楓の筋の子らがやってくる。ここには薬草園がある故な。そして彼らは死しても還ってこぬが、高旗の子らであることに変わりはない」
「父は、戻ってきましたか」
「――洸は、そなたが喰ったのであろう」
「はい」
桔梗に逡巡や悔悟のいろは見えない。
「還ってきたようだが、影にすぎなんだ。じきに消えた」
「そうですか」
「安堵したか」
「はい」
娘は目を伏せ、嘆じるように息を吐く。
そして再び眼を開くと、ゆっくりと表へ視線を転じ、眼を細める。
老人も同じように表を見やる。
母屋の前栽は低くそろえられていて、緑の揺籃に微睡むような里が一望できる。
天と雲は青く煙り、里の四方を取り囲む山々は緑に沈む。山は高く、谷は深く、谷間に畑地が拓かれる。
その間に小さな家々が点在する。
行き交うのは穏やかな顔をした里人たち。畑仕事に精を出すもの、家事をするもの、さまざまな人々が点在する。ただ、幼子の姿だけがない。
そして、彼らを見守るように木陰や物陰に佇む、淡い人影。それは時にははっきりと人の姿をとり、次の瞬間には水面に漣が走るように朧となり、定かではない。
彼らの眼差しはよく晴れた日の中海のおもての如くゆったりと凪ぎ、時々細められる。名残を惜しむかのように。
「やがて、この高旗も影に過ぎなくなり、ついには失せてなくなろう。すべては理のうちじゃ」
長の声が、染み渡るように響いた。
<了>
自作の中では最も好きな作品ですが、自己満足の域を出ないことも分かっています。
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