面輪の鏡
夏のはじめに一月ばかり滝のような雨が続きます。
時おり止むこともありますが、ほとんど間断なく軒を叩く音は続きます。
その頃になると、山も谷も深い緑の闇に沈みます。
やわらかな新緑は深く雄雄しい緑へと変わり、びっしりと生い茂った緑陰に山も谷も蔽われて、渓谷の流れも碧潭の澱みがいっそう深くなるのです。
一日中雨水の伝う幹といわず、枝といわず、地表にあらわれた根にも緑のものがはりつき、あたりは一面、見上げても緑、下を向いても緑となるのです。
雨天はただでさえ薄暗いのに、この時季は空を緑に遮られてさらに暗くなるのです。それを私達は緑闇と呼んでおりました。
この時季、野良仕事はできるはずもなく、あまりの湿り気と薄暗さに内仕事も滞りがちとなり、一年でもっとも手持ち無沙汰な時を持て余すことになります。
けれど、私にだけはこの時季しかできない大切な務めがありました。
それは祠におさめられた照日さまの鏡を清めるお役目です。
私の筋は代々祠の守を務めてきました。守役をつとめるのは、女でなければなりません。先代は私の母、先々代は大叔母だったそうです。祠の守は、女の家に伝えられてきた、とても大切なお役目なのです。
祠は里を潤す流れの源である泉の、さらに奥にありました。
里はまなの地を二つにわける、環の山々の麓にあります。山々の向こう側には中つ海に面する邦々があるそうです。私の里は山々の外側、南国五国の一つの邦境にあります。さらに南には外つ海に面する南海五国があるそうです。
環の山々の峰は高く、その谷は深い。山嶺は夏でも白く、谷間はわきあがる白い靄や霧に抱かれて煙っていることが多くあります。
泉からは一年中こんこんと豊かな水が湧き出して、濁ることも凍ることもありません。
それとは別に、さらに山深い谷から湧き出ずるささやかな清流がありました。その流れは里の手前で、泉からの流れと合流します。この細々とした流れについて知っているものは、里人の中でも限られた人だけです。
草陰に身を隠すような細い流れのほとりを、知らなければ見分けのつかない道の痕跡を辿っていきます。迷って道を失ったかと不安になる頃、ようやく辿りつくのが祠でした。
草陰にその入り口は秘されています。岩のくぼみを草が覆うように茂り、そこに祠があると知らなければ万に一つも見つけることはできないでしょう。
所在を知るのは、今では私だけとなりました。母は先年亡くなり、大叔母も若くして亡くなったそうです。私もそろそろ縁談がこようかという年頃になりましたが、父が厳しく選んでいるのか、私のもとまで届くお話はまだありません。
私の家は守姫の筋と呼ばれています。なにをお守りしているのか、知るのは当家の女主人と家を継ぐ娘のみです。代々婿をとって筋を保ってきました。他家へ嫁ぐよりは気安いのかもしれません。
けれど、私には家柄を頼りに良縁を得て他家へ嫁ぐ妹達がうらやましく思えます。彼女らには担うべき重責はないのですから。
不思議なことと云えば、私の筋は女系というよりも、娘しか生まれません。他家へ嫁いだ場合は異なりますが、家を継ぐ長の娘には女の子しか恵まれないそうです。事実、私は五人姉妹で、母は四人姉妹、祖母は六人姉妹だったそうです。
婿として迎える殿方の血筋は特に拘らないそうですが、ただ、たとえ貴人であろうと一つ所に留まらない者だけはいけないといわれておりました。
私はといえば、母のあとを継いだからといって特に日々の暮らしが変わるわけでもなく、祠の守以外は家事を切り盛りし、田畑の世話をして忙しい生活です。
貴種の筋とは云われておりますが、特に豊かな暮らしをしているわけではありません。ただその姻戚故に暮らしに困るということはありませんでした。
祠を守る務めをのぞけば、他の里の娘となんら変わりはありません。
さて、その私の務めです。口外することは許されません。夫にすら秘して、家を継ぐ娘ただ一人だけに伝えるのです。この伝家の絶えることがあればどうなるのかという不安はあります。その折には必ず報いがあるといわれ、近在の里々にもその禍の恐ろしさは知られております。
守姫は決して絶やしてはならず、何に換えても守らねばならぬ存在であると。でなければ、この邦は滅ぶだろうとすら云われております。その理由が明かされることはなく、守役である私も知らぬことです。
ただひたすらに守姫は守らねばならず、守姫もひたすらに祠を守らなければならない。ただ、それだけのことなのです。
泉の杜をぬけると、いよいよ谷は深くなり、緑闇も濃くなります。頬に当たれば痛いほどの雨も、この谷間では地表に達することはほとんどありません。雨は天蓋を成す枝篠から幹を伝い、地上へと流れてくるのです。
そのためか、このあたりの木々の幹はみっしりと苔に蔽われており、獣道は小川となります。雨の激しさは、その小川の様子で知れました。背の低い下草で蔽われているので、ぬかるんで足をとられるということはありません。それでも天の底が抜けたかと思われるようなどしゃぶりでは、自侭に歩くこともできないほどの水嵩となります。
そのような中を精も根も尽きるような思いで歩き、ようやく祠に辿りつくのです。祠の在り処は暗闇のなかでもそうと知れます。その感覚は守姫のみに限られているようで、たとえ同じ血を引く妹達であっても分からないそうです。特にこの時季には、まるでしじゅう呼ばれているような気さえするのです。
つる草のしげみを潜って、灯り一つない洞穴を進んでいきます。手を壁にそえて、壁伝いに進みます。明かりはなく、目を閉じても開けても同じ暗闇が続きます。いっそ目を閉じているほうが気も楽なので、いつもそうしています。
指先が触れる岩肌は冷たく、そして乾いています。どんなに雨が降っていても、この中だけはいつも乾いています。土も、空気も、ぱりぱりという音がしそうなほどに、乾いているのです。
私はいつもこの洞穴に入る瞬間が恐ろしくて仕方がありません。幼い頃、母に連れられてはじめてきた時から、その瞬間の慄きは変わることがありません。最初は暗闇が怖いのかと思っておりました。今ではそういうことではないような気がしています。ではどういうことなのかと問われても、うまく答えることは出来そうにありません。
つる草の向こう側の闇を見つめるとき、真夜中に井戸を覗き込んでその中に自分の顔を捜そうとするような、なんともあやふやな思いに包まれます。闇の中に、自分ではない何者かが見えはしないかという不安とも恐れともつかないものがよぎり、その暗闇の中にあるのかないのか、いるのかいないのかも知れないモノが見えそうな気がするのです。
闇の向こう側、昏い井戸の底から、もう一人の私が見つめ返しているような。
つる草のしげみを潜るとき、私はえいやっと高いところから飛び降りるような心地で思い切るのです。そんな弾みがなければ、とても潜ることは出来ません。
祠のある洞穴は、どこまで続いているのか分からないそうです。確かめた者はなく、私も確かめたいとは思いません。
洞窟は入ってすぐに狭くなり、くの字に曲がります。一見行き止まりのようですが、わずかに奥へ抜けられるようになっているのです。知らなければ叶いますまい。どのように抜けるのかは云わずにおきましょう。
そこを抜けると、その先は火の気もないのにぼんやりと明るいのです。くっきりと隅々まで照らし出すような明るさではありません。障子越しの月明かりのような、あえかな明かりです。青白く照らし、陰はますます深くなる。そんな風情です。
そこからさらに奥へ進むと、もう一度曲がり角にぶつかります。その先に、祠はあるのです。
洞窟のなかは乾いています。下には小石まじりの砂。壁をなす岩肌も、岩でありながら軽い土ででもできているように、ぱさぱさとした手触りなのです。
里には他に洞穴はありません。けれど、貯蔵用に岩室ならあります。そこはじっとりと冷たく湿っています。
洞穴はここしか知らないのに、どういうわけでか私にはここの在り様が常ならぬことのように思えました。
体中の血潮が凍りつくような、そんな恐ろしい心地は一瞬ですが、その残滓とでもいうのか、心はぴりぴりと緊張し続けています。
祠は私でも一抱えできそうなほどに小さなものです。ささやかな石垣の上に白木作りの祠がのせられています。たいそう旧いもののようですが、彩色はひとつもありません。
祠の正面には両開きの扉があります。その表には細かな彫り物が、見とれるほどの見事さで残されています。刻まれているのは見たこともない生き物ばかりです。幼かった私に、それらは聖なる獣で、むあの地に実際に生きていたものばかりだと母は話してくれました。
「むあ」とは何かと問う私に、母も詳しくは知らないと笑いました。まなの地がまなでなかったほどの古に存在した地で、失われて久しいそうです。祠に納められている照日さまの鏡も、むあとの縁は浅からずということでした。
祠の扉を開けると、そこに鏡が一枚裏向けで立てかけられてあります。背面には扉と似た獣や植物の柄が浮き彫りになっています。見事な丸い形で、まるで昨日鋳たばかりのように輝いています。でも、私達が守ってきたのは、これではありません。
この鏡の奥に仕掛けがあり、祠の床下があくようになっているのです。そこにこそ、お守りしてきた照日さまの鏡が隠されてあるのです。
こちらの鏡はまるで飾りがなく、しかも古びたものです。背面にはつまみがあるだけで、緑青すら浮いています。みすぼらしくすらあるこの鏡が、私の筋がお守りした鏡なのです。
お守りしてきたとは云いますが、肝心なことはただの二つだけです。かたく秘すことと、この雨の時季のおつとめのみ。
包みごと手にすると、ずしりと重いのです。両手の中に納まってしまうほどの、小さな鏡です。そのわりに思いがけなく重いので、私はいつもこれを手にするたびに息を詰めてしまいます。
鏡を包む錦は、緋色の地に金と青の聖獣の模様。
そっとその包みをといてみますと、見覚えのある緑青の浮いた背面がのぞきます。
背面のつまみは長い蛇の姿をとっています。うねり、とぐろをまいたその頭部をつまむようになっています。指のほどしかないその頭部には、青と赤の石がそれぞれ眼にあたる位置にはめ込まれています。その蛇の背にも緑青は浮いていました。
幼い頃からよく見知ったその蛇の姿にほっとする反面、洞窟に入ったときから背筋にはりついている恐ろしいような心地がいっそう強まるのも確かです。安堵しつつ慄くという事は、矛盾しているのかもしれません。私にとってこの鏡は恐ろしいものなのです。
失われれば、里はおろか邦までもが滅ぶといわれる鏡です。毎年、その所在を確認するたびにまさかの不安に慄き、その存在を確認した瞬間には安堵しながらも、鏡を再び前にしたことに心がどよめきます。
恐ろしい謂れがあるからといって、鏡そのものまで恐ろしいものとは限らないのかもしれません。それでも、母に伴われてはじめてこの鏡を眼にしたときから、今も怖くて恐ろしくてたまらないのです。わけは知れません。ただ闇雲にこわくて、だからといって駄々っ子のように拒むことも出来ず、幼かった私は涙とその慄きを一緒に飲み込んで、息を詰めたのでした。
母も同じ思いをしたのか、ひときわ優しく頭を撫でてくれました。
鏡は“照日さまの鏡”と呼ばれて伝えられてきました。
はるかな古に、照日さまと呼ばれた方にゆかりのある鏡なのでしょう。
照日さまがどのような方なのか、鏡との所縁、鏡そのものについても伝わっておりません。
ただ一つだけ、厳しく戒められていることがあります。それは“決して鏡面に己を映してはならぬ”ということです。
背面はこれだけ古びているのに、鏡面は研ぎだしたばかりのように輝いています。
私のつとめはその鏡面を清水で浄めること。その際に曇りが残っていないか、斜から鏡面をのぞいて確認しますが、決して正面からのぞくことはしてはならないのです。
そこに己の顔を映し出した時、なにが起こるのか。それは誰も知らないことです。
錦に鏡をしっかりくるむと、胸に抱いて洞窟の奥に向かいます。
しばらく歩くと空気は湿り気を帯びはじめ、ほどなく水の気配も伝わってきます。洞窟のひとつの分岐が行き止まりになっていて、そこに清水が湧いているのです。
大きく張り出した岩の下から清水は湧き出していて、ほどなく水の気配も伝わってきます。水底に白砂が堆積し、目のない小海老が泳いでいます。
祠からこの奥まで、洞窟は月夜のような淡く暗い明るさに包まれています。光源はここにもありません。それでも泉の面には、波紋が煌いていることすらあるのです。
私は水辺に腰をおろします。
泉のほとりには岩が低く連なり、その中の一部は飛び石のように泉の中に続いています。祖先の誰かが足場を作ってくれたのでしょう。
膝の上に包みをのせ、広げます。
慎重に、そっと。
錦の包みをひろげると、蛇の青と赤の目が光ります。その目を錦の端でそっと拭うと、その光にはぽっと焔が燈ったように思われました。
いつものこと。そう、いつものことです。
それでも、鼓動は高鳴ります。
この鏡をじかに手にすること。なんと恐れ多い、そして私だけに許された、特別なおつとめです。
高鳴りが緊張のためか、高揚のためか、私にもわかりません。
深呼吸をして気を静めます。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
目を閉じて、静かな呼吸を心がけます。
吐息を治めるように、それに心を乗せるように、深く深く……
心が平静になるにつれ、鏡の背面からもなにかが伝わってきます。
なにか、それはいったいなんなのでしょうか。
私達がお守りしてきたものです。
それは物なのでしょうか。それとも、者なのでしょうか。
それとも。
モノなのでしょうか。
照日さま。
どのようなお方だったのでしょうか。
思い切って両手でそっと鏡を持ち上げます。
あくまでそっと、丁寧に。鏡面に触れてはいけないとは伝わっておりませんが、映してはならぬのならば触れるのも躊躇われます。縁を持って、ゆっくりと慎重に万が一にも落とさぬように。
触れても特に変わったことが起こるわけではありません。鋳物のひんやりとした感触が指先から伝わってくるだけです。
手を伸ばして、鏡を水に浸す瞬間が一番緊張します。思わず息を止めてしまうほどに。
泉の水は心地よくひんやりしています。
背面の蛇まで水につかりました。
鏡を水にくぐらせ、少し揺らし、しばらくはそのままじっとしています。
私の役目はこれだけです。これだけのことが、大層なことのように受け継がれてきたのです。
鏡をどのくらい水につけておくのか、定められてはいません。私が頃合を見ればよいのです。その頃合は鏡を手にしていると自然と分かるような気がします。
特に鏡に変化が起こるわけではありませんが、ほっとしたような癒されたような心地が自然と湧いてくるのです。それは鏡から伝わってくるようにも思われます。
さあ、あげようかと思ったときです。
指先がつっと滑りました。鏡は傾きながら泉の底へ沈んでいきます。
あっと思う間もありませんでした。
水面にいっそうくっきりとした波紋が生じます。鏡は歪んで見えました。そして、ゆっくりとひっくり返りながら沈んでいきます。
慌てて手をさしのばしました。
泉は浅く、両肘あたりまで浸れば底についてしまいます。
でも、間に合いませんでした。
鏡はひっくり返ってしまったのです。そして、その鏡面には私の顔がうつっていました。鏡の中の眼差しと目が合ったのです。それは一瞬光ったようにも思われました。
次の瞬間、痛みとも苦しみともつかないものが身のうちに生じました。臓腑の内側から体がひっくり返されるような、私が裏返しにされるような、そんな恐ろしい感じです。
それまで身のうち深く潜んでいたものが、一気に牙をむき、内臓から食い荒らしていくような……
このままでは喰われてしまう……
私は目を開けているのかどうかも定かなでないまま鏡を掴み、再び裏返しました。
自らの心臓を掴みだすような心地でした。
それきり、気を失ってしまったのです。
あまりの冷たさに目を覚ましました。
私は飛び石の上に伏せるようにして倒れていました。額だけが水に触れて、髪がゆらゆらと揺れていました。
私はゆっくり手をついて起き上がり、顔を上げました。四肢はすっかり冷え切り、体中が強張っています。
目の前は水面。そこに、私が映っていました。
水面は波紋に歪み、そこに私の歪んだ顔が映っています。
歪んだ面輪……あれは、鏡に映った私の顔だったのでしょうか。
水底で、蛇の目が光りました。
私はそっとその灯りに微笑みかけました。
了