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昔日の影  作者: 苳子
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和泉さま 壱、哉羽(かなは)の水

壱、哉羽かなはの水


 その村を訪れたのは、十になったころのことでございました。

 その当時、まわり薬師であった父に連れられて、旅暮らしをしておりました。

 まわり薬師は、受け持ちの国々を一年かけて薬を売ってまわります。

 薬の商いは、高旗たかはたくにのものの一生をかけて担う仕事でございました。

 難しい調合は秘伝とされ、男の子にだけ受け継がれてきました。

 あいにく、父には私という女の子しかなく、その後継は高旗で修行中の従弟に委ねられることと決まっておりました。

 私は嫁ぐ年頃になるまで、父と共に西国五カ国をまわることと定められておりました。

 私の母は香里こおりの邦のもので、私が父の生国である高旗に嫁ぐことだけは禁じられておりました。

 薬師の血は遠く、薄く、広く、散らさなければならないとされておりましたので。

 その理由を私が知ることはございません。

 父も知らないようでございました。

 全てを知るのは、高旗の長さまだけだということでございます。

 高旗という邦を、私は生涯この眼にすることはございません。

 長い生という勤めを終えたときに、ようやく還ることが許されるのだということでございます。

 母からは香里の血を、父からは高旗の血を。私はふたつの血を受け継いでございますが、魂の還る地はまだ見ぬ高旗だということでございます

 それだけ、高旗の地の呼ぶ声が、高旗の血が、どこの血よりも強いのだということでございます。

 だからこそ、薬師の血、高旗の血は散らさなけばならぬのかもしれません。

 

 お話が語るべきことから逸れてしまいました。

 

 その村の名は、哉羽かなはといいました。陽野ひやの邦の北にございます。

 三方を山に囲まれた、静かで小さな村でございました。

 その村も父の受け持ちでもございました。

 年に一二度、私と父は哉羽の村を訪れておりました。

 珍しく医家さまのおられる村でしたが、肝心の薬は父が頼りでございました。

 村を訪れれば、必ず村長むらおさのお屋敷に泊めていただきました。

 父は着くやいなや医家さまにつきそって、村の家々をまわるのがつとめでございました。

 後を継ぐべき男の子でもない私には、するべきことはございませんでした。泊めていただくお礼に、家事をお手伝いするのがせいぜいでございました。それも客人への気兼ねもあってか、なかなかまかせてはいただけませんでした。

 どうしても手持ちぶさたなことが多く、お屋敷にいても何もできないことが後ろめたくもあり、当てもなく村のなかをぶらぶらと歩き回っておりました。

 野良仕事に忙しい時期などは、まるで私一人だけが遊びほうけておるようで、後ろめたさはなおいっそう募りました。

 仕方なく村人の姿を避けて、山の奥深くまでさまよい歩くことも多かったのでございます。

 そんな時でございました。

 私はその日、川上までのぼっていきました。

 そのころには、お屋敷の方々からお弁当をもたせていただくのが常となっておりました。

 朝から日暮れまで、時には翌日までお屋敷に帰らずにさまようこともございました。まわり薬師の娘と云うことで、どのような振る舞いも奇異の目で見られることはございませんでした。

 父に咎められたり、止められたりしたことは一度もございません。

 今思えば不思議なことでございます。

 幼い娘の一人歩きを、父はまるで気にかけておりませんでした。七つのころから一人歩きをしておりましたが、父はいつも私がいつ帰ってくるのか知っており、どこへ行っていたのかも承知しているような節がございました。

 いつも縁側に座って、私を迎えてくれるのでございます。

 時に足を滑らせ傷をつくって帰ることもございましたが、そんなことも見透かしていたように、ちゃんと膏薬も用意されておりました。

 

 また、お話が逸れてしまいましたね。


 その川は、哉羽の村を潤す大切な流れでございました。

 それ故に、その源をなす泉には水守がおられました。

 何度もその泉を訪ねておりましたので、水守のご老人とは顔なじみでございました。

 特に言葉を交わすこともございませんでした。

 泉の淵にたち、湧水の傍らに腰をおろす水守と会釈を交わすだけでございました。

 泉は崖の下から湧きいで、周囲は森閑とした緑に守られておりました。

 村からは歩いて数刻かかり、一年中木立に包まれておりました。

 細かな砂の底までよく見通せる、澄んで美しい水面の泉でございました。

 水守の手入れが本当に行き届いておりました。

 その日も朝早くにお屋敷を出た私は、お昼になる前には泉についておりました。

 私は水守に会釈をすると、あとは黙って泉の面を眺めたり、その周囲をぶらぶらと歩き回ったりしておりました。

 それを見つけたのは、昼過ぎのころだったでしょうか。

 崖の真上に日がさしかかり、本当に珍しいことに、泉の面に光がさしたのでございます。

 漣をはじいて煌めく日の光は、まるで魚の鱗のようでございました。

 思いがけないことに、私は泉に吸い寄せられ、そのまま足を浸してしまいそうになりました。

 浅いように見えて、その実、大人も溺れるほどに深い淵でもございました。

 あわやのところで、水守が腕をとってくれました。

 そのときでございます。

 泉の中ほど、漣が湧くところに、一瞬ですが、確かに人の姿があったのでございます。

 あまりのまばゆさに、目がくらんでの見間違いとも思いましたが、それにしてはあまりに鮮やかに過ぎる幻でございました。

 白い、光の結晶のような、影でございました。

 結い髪がふうわりと広がり、凛とした横顔が少し哀しげでもございました。

 御衣装の裾と袖が、泉のおもてからまるで風に吹き上げられるように翻っておりました。

 なにかをお探しになるかのように、こうべを巡らされ、最後に空を仰ぎ見られました。

 なにも見つからなかったのでしょうか。

 かの君の眸はかすかに曇ったようにも見えたのでございます。

 そうして、その姿はかき消すようになくなってしまったのでございます。

 本当に束の間の出来事でございました。

 私は驚いて水守の皺深い顔を見上げたのでございます。

 ご老人も、そのお姿を見ておられたようでございました。

 いつもは眠っているかのように細められているまなこが、大きく開かれておりました。

「ひかりさまじゃ」

「……え?」

「むあの都から落ちのびてこられたひかりさまは、この村にたどり着いたとき、まだ五つという幼子であられた。お供は女一人だけで、女はこの泉のほとりで大事に大事にひかりさまをお守りお育て申し上げた。しかし、ひかりさまは七つになる前に病を得て亡くなってしまわれた。その亡骸を女は何処かへ隠し、大事に大事にお守り申し上げたそうじゃ。その女はいつしか和泉さまと呼ばれるようになり、長くは生きなかったそうじゃが、その骸はこのほとりに葬られた。ひかりさまの墓所は知れぬままじゃが、時折先ほどのようにお姿がうつることがある」

「あれが、ひかりさま?」

「そうじゃ……お前も見たな?」

「……はい」

「僥倖じゃ。めったと他言するではないぞ」

「……はい」

 私は『ひかりさま』がどのような縁の方なのか存じません。それでも、あのお姿から高貴なお方に違いないと確信しております。 

 それからも一七の年に嫁ぐまで、毎年哉羽の村を訪れるたびにあの泉まで足をのばしましたが、ひかりさまにお目にかかれることは二度となかったのでございます。

 水守にひかりさまについて訊ねることは叶いませんでした。

 あれ以来、ひかりさまについて口にすることも、耳にすることも、あのご老人は拒んでおられました。

 その気色に気圧されて、私もついに口にすることができなかったのでございます。

 遠回しに父に訊ねたこともございましたが、『むあ』について口にしてはならないと、珍しく止められたのでございます。

 あの父が禁じることということは、私にはとても恐ろしいことのように思われました。

 私も『ひかりさま』のことは胸深くにしまいこみ、二度と口にすることはございませんでした。

 ただ、あの時をのぞいては。

 それは、私が嫁いだ年のことでございます。


 一七の年。

 父のもとを離れて、私は室瀬の邦の或深あるみの村に嫁いだのでございます。


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