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永遠なる祈りをのせて

作者: hinokahimi

 川原に足を下ろした瞬間、取り巻く空気が変わった。緑の匂いや水の匂い、土の匂いが入り混じった濃密な空気が勢いよく鼻の奥へと入り込む。記憶を甦らせる不思議な力が体じゅうを駆け巡っていく。わたしは川原を見渡して、大きく深呼吸をした。ほとばしるようにあの頃の情景が脳裏によみがえってくる。そうして水際を求めて足を進めた。久しぶりに訪れたこの懐かしい川場に挨拶をするように、一足ずつ慎重に地面に置いていく。少し進んでは、辺りを見渡し、また少し進んで、立ち止まる。それを繰り返しながら、記憶の断片を今の風景と重ねていった。すると、川のほとりにあるまわりより少し大きめの岩が目に映った。脳裏の映像を確かめる。あの岩だった。彼はあそこに座っていたんだった…。岩に近寄ると、思わず手を伸ばしてその熱を帯びた岩肌にあてがった。この岩を、あの頃もっと大きく感じていたのにな、という思いが湧いてきて、とてもせつなくなった。時の流れはすべてを移ろわせ、変えていってしまう。それでも、川の流れを一身に受け続けるあの大きな石は、私がここにいたあの時も、そうしてそこにいたのだろう。この岩も、目前の木立も。石や木々の時間でゆっくりと変化しているだろうけれど、私には、何も変わっていないように見える。変わらずあるものなんてないのに、心のどこかで変わらずにあってほしいと願ってしまう。私にとって、この場所はその願いのひとつなんだと思った。腰を下ろすと、川上の方へと目をやった。あの時泳いでいたあたりだ。水の感触やはしゃぐ声がよみがえってくる。まだ、そこらへんに子どもの頃の私たちが遊んでいるような不思議な錯覚があった。私たちがここで遊んでいた記録は、この川原に残っていると思う。私たちの記憶は川底にしまわれている。延々と流れる流れに徐々に地中深く埋められていくけど、確かにどこかで輝いている。

“お久しぶりです…”

 私は、川の流れに向かって心の中で語りかけた。

“彼、あの時、ここでスケッチブックを広げていたあの男の子、覚えてらっしゃいますか。彼、もうこの 世界からいなくなってしまった…もう、この風景を描くことはできなくなってしまったんです…”

 目を閉じると、川の音がより心地良く耳を伝ってくる。ここで奏でられている音が、私の意識を穏やかに変換していってくれる。その川音を、心の中に添わせてみる。体内に響かせてみる。そうして、日頃心に積もってしまった思いや感情のカケラがみんな流れていってくれるといいなと思った。久しぶりのこの川は、やさしかった。あの頃と同じように、やさしかった。

 背負っていたリュックサックをおろすと、スケッチブックと水彩絵の具を取り出し、絵を描く準備を始めた。粗雑な動作や気持ちでこの場所やこれから描く絵を乱さないために、ひとつひとつの作業を丁寧にする。川の水を汲み、パレットに緑や青などの色のかたまりをのせていく。そして、絵を描く体や心を整える。大きく深呼吸して目を閉じた。絵は頂きものだという言葉を思い出す。手を合わせ、少し祈る。描きはじめる時のいつもの習慣を、今日はとりわけ儀式のように行った。もうすでに決まっている絵の構図を、その風景に重ね確かめる。そして、麦わら帽子の半円の影が落ちる画用紙へと写しはじめた。時の急流から外れ、時空の空洞に身をゆだねる。過去と現在が重なり合った。私と彼の視点が同じベクトルで対象と繋がりあう。今目の前の風景を写生しながら、あの日の彼の絵を模写していった。描き終わったのは、川向こうの木立の奥からヒグラシの声が聞こえてきた頃だった。絵筆を置くと、私は大きく伸びをした。その時川上から降りてくる優しい風が体に戯れた。熱を持った体に心地よく、目を閉じて大きく息を吐いた。

 すると、聞き覚えのある犬の鳴き声が聞こえた。振り返ると、車道から川原へ降りてくるじんくんとゴールデンレトリバーのタローの姿が見えた。ゴロゴロ転がる大きな石を避けながら、ゆうゆうとこちらへ近づいてくる。

「おぉ、ここにおったんか」

 大声が響いた。

「うん」

 小さな声は届くはずもなく、ただコクリと頷いて見せた。

「なみちゃん、久しぶりだな。じいちゃんの葬式以来だから、3年ぶりか」

 じんくんはそう言って、近くの岩に腰掛けた。

「雰囲気が全く変わりましたね」

 私はおどける口調で言った。

「当たり前だ。男が上がったろうが」

 じんくんはそう言って、日に焼けたたくましい腕を突きつけてきた。

「はい、はい」

 二人とも同時に笑った。

「お墓参りに来てたときには、じんくんに会えずじまいだったな」

「色々忙しくて、飛び回ってるからな。モテル男はツライの~」

 大きく胸を張って、左手を後頭部へと回して笑う姿は大袈裟すぎて、コントを見ているみたいだった。

「それは、それは」

 勢いのある笑いが込み上げて、にわか芸人は笑いを勝ち取った。いとこのじんくんは、じいちゃんが亡くなってからこの村に帰ってきた。高校からこの村を離れ、都会でサラリーマンをしていた。自分でも驚いたそうだ。この村へ帰ってくるつもりはなかったのに、じいちゃんの畑に立った時、帰って来ることを決めたそうだ。今は稼業である農業を継いでいる。

「泊まりに来たのは何年ぶりだ?」

「最後に来たのは、小6だから、…15年ぶりだ」

「そんなに経つのか…」

 小学校の夏休みには必ず、この山間の村にある母の実家に遊びに来ていた。家族みんなでお墓参りをしてから、父はお泊まり組を置いて帰り、おおよそ1週間後に迎えに来てくれた。小学生の私が父と一緒に帰る組のメンバーになったことはなかった。

 私は、この村が大好きだった。好きになった分、この村はたくさんの思い出を与えてくれた。この川も、あの木々も、じいちゃんの畑も、家の裏山も。この山間の村を見下ろす一番高いだいごんじ山は、思い出の総指揮者だった。子どもの頃の大切な思い出は、今の私を形作る支えになってくれているような気がする。いつでも力を与えてくれているんだ。深いところで、気づかないところで。

「絵を描いてたのか。絵描きの卵さん」

 じんくんは可笑しな抑揚をつけて言った。

「うん」

「絵の先生をしてるんだって?」

「うん。子どもたちの絵画教室。先生って感じじゃないけどね」

「子どもの絵って、自由だよな」

「うん、そう」

 子どもたちに絵を教えるというより、子どもたちが無限の絵の泉から、自分なりの絵を汲み取ってくることを、側で一緒に楽しんでいる。子どもたちにとって、無限の絵の泉に辿り着くことはたやすくて、ただ、その泉の水をこの世界にこぼさないように持ってくることに慣れていないだけなんだ。大人になるにつれて、無限の絵の泉への道しるべを見失ってしまうことがある。時に、泥沼から汲み取ってきていることにさえ気づかなくなる。だから、子どもたちの方が、先生なんだと思う。だから私はただ側で賞賛し応援する。

「その絵、ちょっと見ていいか」

「いいよ」

 わたしはスケッチブックをじんくんに渡した。じんくんは、スケッチブックを顔の高さまで掲げると、レーダーのように体の向きを変えて、絵の風景を探し始めた。そしてその同じ場所に並べると、しばらく見比べていた。

「うまいもんだな。川の流れが力強いよ」

「うれしい、ありがとう」

 子どもたちが絵を褒められた時に見せるキラキラした表情を思い出した。年を重ねても、いつだって褒められることはうれしい。

「じんくん、覚えてる?」

「ん?」

「私が小六で、じんくん中一のとき、ここで、この川の絵を描いてた男の子のこと…林間学校か何かでここらへんに来てた子」

「あー、覚えてるよ。一緒に遊んだよな」

「うん」

 じんくんが覚えていたことに、わたしはうれしくなった。

「この川、いろんな子どもが遊びに来てて、その日限りの友だちっていっぱいいたよな。」

「そうだったね」

「あの子のことは覚えてるよ。描いてた絵、迫力あったもんな。なんていったっけ?」

「りゅうくん」

「そうだ。りゅうだ。どうしてるんだろうな、あいつ。華奢な体の割りに、器用で体力あったよな」

 じんくんはおもむろに立ち上がると小石を拾い始めた。

「あの時、一緒に小石投げしたよな。あいつ、すごくうまかった」

「そうだったね」

 じんくんは、体を傾けると、器用に小石を投げた。小石は川面を切って、2,3度跳ねていった。私もじんくんに倣った。

「あー、やっぱり今もできないよ…」

 ぽちゃんと一度だけ音がしただけだった。

 じんくんは本当のお兄ちゃんのような存在だった。不思議と気を使わなくてもよいし、接していても心が楽な人だ。滅多に会わないし、連絡を取り合うことも滅多にない。疎遠になると、他人行儀になってしまいそうに思う。けれど、こうして久しぶりに会っても、二人の間の感覚は子どもの頃と変わらないような感じがする。ありのままでいられるんだ。私にとっては、まさに人間関係のオアシスのような存在だった。私は石投げを諦めて、またもとの場所に座り込んだ。まだ一生懸命に石を投げているじんくんの様子も、子どもの頃と変わらないように見えた。天を仰ぐと、夏の濃い青の空があった。太陽はもうその姿を山向こうに隠していたが、まだ強い光を放っている。それでも目前のうっそうとした木々の間は、もう闇を蓄えていた。あの頃も、夕暮れへと色を変えてゆくこのひとときだけは、淋しさを感じた。日が暮れてしまえばまた楽しいことが待っている。楽しい時間と楽しい時間の間に挟まった、サンドウィッチのカラシのようなぴりっとしたせつない時間だった。あと何日この村にいられるのかを指折り数えて、過ぎてほしくない気持ちが押し寄せてきたのも、夕暮れ時だった。

「最近はこの川で遊んでる子ども、あんまり見かけないな」

 そう言って、じんくんは腰を下ろした。

「そうなの?」

「あの頃は、今の季節、この時間帯でも、たくさんの子どもがこの川にいたもんだけどな」

 じんくんの手元で小石がカチカチ音を立てている。

「そうだね」

「この川も、淋しがってるだろうな」

 じんくんは笑った。

「うん。きっと淋しがってる…。」

 じんくんが冗談のように言った言葉でも、その感覚をうれしく思った。この川には目に見えないけど、川の魂というようなものがきっとあるんだと思っていた。そう、子どもの時から。ふと、じいちゃんの姿が脳裏に浮かんだ。畑に入っていく前に、しばらく手を合わせていた姿だった。ある日、じいちゃんに聞いたことがあった。

「なんで、手を合わせるの?」

「まんまを食べさせてもらっとるからや。どんなもんにも、気持ちがある。だから世話になっとるもんにはお礼を言わんといかん」

 じいちゃんの声や言葉には爽快な力があった。体に直結した声、働く体に直に繋がった言葉、説教じみてなくて、スコーンと突き抜けていた。

「まぁ、今でもこいつの大切な遊び場だけどな」

 じんくんは、私とじんくんの間で寝そべっているタローの体を撫でながら言った。タローは、尻尾を振りはじめた。じんくんがポケットに手をやるのと同時に、タローは立ち上がった。じんくんは、ボールを川に向かって投げ入れた。その瞬間、機敏な動きでタローは川の中へと入っていった。


 りゅうくんに恋心を抱いたのだろうか。恋というより、憧れに似た気持ちだったような気がする。同じ年齢だというのに、どこか落ち着いていた。今になって思えば、孤高の芸術家の雰囲気をすでに放っていたのかもしれない。同級生の男の子にはない雰囲気だった。あの時、人懐っこいじんくんは、彼の絵を覗き込みに行って、私と弟も一緒に付いていった。私は、その絵を見た瞬間、しばらくその場を離れがたくなった。彼の描いていたこの川の情景は、とても力強くて、その絵の力に引き付けられた。

「絵が好き?」

 と彼は聞いてきた。近寄りがたいと思っていた私のイメージを打ち砕くような無邪気な声だった。

「え?う、うん…」

 そう返事をして周囲を見ると、じんくんと弟は、もう川の中で遊び始めていた。二人がその場にいなくなっていたことに気づかなかった。動揺しながらも見つめた彼の目に引きこまれた。やさしくてまっすぐな目だった。すると、じんくんの大声が響いた。おまえも来いよと誘われた彼は嬉しそうに、照れくさそうに、仲間に加わった。それから一緒に日暮れまで遊んだ。別れ際、私は彼の絵に感動したことを素直に伝えた。川の中でくたくたになるまで遊んで、空っぽになった頭から、ぽんと出てきた賞賛の言葉だった。すると、スケッチブックから無造作にその絵を切り取ると、わたしに手渡した。

「いいの?」

「いいよ」

 彼はニッコリ笑顔で言った。

「ね、文通しようよ」

「う、うん。いいよ」

 そうやってわたしたちは文通を始めた。毎回、彼からの手紙には画用紙に描かれた絵が一枚だけ入っていた。始めは、感想を書いて返信していたが、次第に私も同じように絵を描いて送るようになった。それまでわたしは絵を観ることは好きだったけれど、描くことがそれほど好きではなかった。そして、何より自分には絵心がないと思い込んでいた。しかし、彼との文通は絵を描く楽しさを教えてくれた。そして私の胸の中にしっかりと絵を宿してくれた。しばらく続いた文通も自然と回数が減っていって、いつしか途絶えた。


 水に濡れたタローが私の目の前で身震いした。跳ねた水しぶきを受けて私は笑った。じんくんはボールをもてあそびながら、さっきいた場所に座った。

「日が暮れてきたな」

「うん」

 それからしばらく黙ったままでいた。川の音だけが響いて、静かだった。

「川の音って好きだな。」

 ふと私はひとり言が口をついてでてきたみたいに喋った。

「川の音って、石があったり、段差があったり、流れの曲がった所でよく聞こえる…そんな障害物みたいなものがあるからこそ、きれいな音がするんだろうか……、人生もきっとそうなのかな…」

 じんくんは黙っていた。私は、タローを招きよせると、抱きしめながら、湿った毛を撫でた。そして、じんくんの方を見て大きく笑った。

「帰ろう」

 私は勢いよく立ち上がると、大きな動作で、お尻をはたいた。そして、身支度を整えると背伸びをした。

「それでも、その音が好きだからって、その音がきれいだからって、わざと、大きな石を流れに置いたり、流れを変えてしまうようなことはするなよな」

 じんくんは神妙に低い声で言った。

「え?」

「なーんてな」

 じんくんは、そう言って声を上げて笑うと、ひとり歩き始めた。タローがその後を追うと、私はその様子をしばらく眺めてから、その背中を急いで追いかけた。


 りゅうくんが亡くなったことを知ったのは、今年に入ってからだった。年賀状の返信が彼の母親から来た。その葉書には彼の死が簡潔に告げられていた。私の年賀状は、りゅうくんの両親にとって悲しみを再確認させてしまっただろう。彼の不在を改めて突きつけてしまっただろうと心苦しくなった。無知は、時に残酷になりうる。

 文通が途絶えて以来、音信不通だった私たちが、再び年賀状を送りあうようになったのは、りゅうくんからの手紙がきっかけだった。私が就職した年だった。彼は美大を卒業した後、世界中をバックパッカーで旅しながら絵を描いていることが綴られていた。急いで描いたようなスケッチ画にはハワイの風が封じ込められていた。私は地元の公立の美大を卒業し、デザイン会社で働き始めていた。小さな会社だったため、ちょっとした事務の仕事もこなしていた。私の方は、就職してから、忙しい仕事に日々疲れ果て、仕事以外に絵を描くことから遠のいていた。突然送られてきた彼の手紙は、絵を描くことを忘れるなというメッセージだったのかもしれない。それからふと思い出したように、旅先からスケッチが送られてきた。なぜ彼がまた絵を送ってくるようになったかはわからない。もしかして、彼は純粋に絵を楽しんで描いていた子どもの頃の自分自身を取り戻りたいと願っていたのかもしれない。私に絵を送ることで、その頃の自分自身を思い出そうとしていたのだろうか。その真意を聞いてみたかった。話してみたかった。彼の最後の便りに書かれた“いつかまた会いましょう”という願いも、一生叶えることはできなくなってしまった。彼の存在はこの世からなくなって、彼の目を見ることも、彼の手を握ることも、彼の声を聞くことも、もうできなくなってしまった。彼は彼という存在を通して新しい絵をこの世に生み出すこともできなくなってしまった。彼の肉体は、この世界で形を変えてしまったんだ。たとえ形は違ってもこの世界のどこかでまた巡ってゆくのだろう。彼が吐いた最期の息は、風の中でこの世界を巡ってゆくのだろう。そして、彼の魂はきっとまた新たな旅を続けるのだろう。もしかしたら、また別の形で出会うこともあるのかもしれない。しかし、りゅうくんという存在とはもう永遠に逢うことはできない。その悲しみはどれだけ想像力を働かせても、痛いほどに心に沁みたんだ。


 蚊取り線香がやんわり役目を果たしながら、わたしに夏の匂いをしみこませていく。わたしは、縁側に座ってお風呂上りの心地よさを味わった。夜の空気には、もう秋が入り混じっていた。次の季節へと切り替えていくために、秋の喜びを濃縮した予告編が夜空を駆け巡っていく。空一面の星空を久しぶりに見ることのできる幸福感は、首の痛みさえ感じなくさせる。人は死んでしまうと、星になるという人がいる。そうなら、この空はいつしか光だけになる。

「飲むか?」

 じんくんが缶ビールを肩越しに差し出した。よく冷えていることが、耳たぶから伝わる。

「ありがとう」

 受け取って火照った頬に当てた。じんくんは、となりであぐらをかいた。プルトップの和音の後、静かに缶を傾け合い、再会の祝杯を飲んだ。

「普段あんまり飲まないけど、今すんごくおいしい。」

「よかった。…そういえば、さっき、言ってたりゅうくん?」

「うん」

「あれからずっと交流があったのか」

「あれからしばらく文通をしてて、中学生になったら、終わっちゃった。でもね、就職した年にまた手紙をくれたの。びっくりしたけど、うれしかったな。絵を描くことを思い出させてくれた。りゅうくんのおかげで、今私は絵を描くことができているんだ」

「そっか」

「ねぇ、じんくん、今、急に死んじゃったら、すごく悔しい?」

 じんくんは急いでビールを飲む込むと、私のほうへ顔を向けた。

「え?」

「事故とかで…誰にも何にも言えず、したかったことも中途半端で」

「悔しいだろうな…言葉にならないくらい、想像できないくらい…どうしたんだ?」

「ごめん。急に」

「りゅうくん?」

 私の様子に何かを察知したじんくんは、恐る恐る尋ねた。

「うん」

「亡くなったのか?」

「うん」

 じんくんはしばらく動きを止めていた。

「事故だったんだって。詳しいことはわからない」

 わたしは、ビールを飲み干した。

「私、すんごく悲しくなって」

「おれも、あの時、少しだけ遊んだだけなのに、なんかすごく悲しい」

 わたしは、話したとたん、夏にみなぎる力が抜けていった。そして、目だけを上げて星空を見つめた。じんくんは、体を倒して寝そべった。

「彼、描きたい絵がたくさんあっただろうに、やりたいこと、行きたい場所がたくさんあっただろうに…それができなくなってしまった…りゅうくんとして…」

 涙が流れていた。縁側が薄暗くて良かった。

「あー、こんな悲しいことが、この世界には繰り返されてる。どこかで、何かすごく悲しいことが起こっていて、知らない内に、この世界がまた形を変えていっている」

 涙声になりそうになったので、思わず口を閉じた。涙は静かに流れ続けた。私は、鼻をすすることも、涙を拭うこともせず、空を眺め続けた。

「だから、会社辞めたんか。なんでかなって、ちょっと思ってた」

 あの時、私は悲しみのすぐ側でうずくまっている奇跡があることに気づいた。絵が描ける手があること、目があること。この体があるおかげで、絵が描けるということ。その果てしなく深遠な恩恵は、まさに奇跡のなにものでもない。当たり前にしてたけど、当たり前ではなかった。そう気づいた時、私は、描こうと思った。この体が与えられているうちに、描きたい絵を、好きな絵を描こう、この世界からできるだけたくさん頂いておこうと思った。いつまでそうできるかなんて私にだってわからないのだから。そして、もしも叶うならば、彼ほどの才能はないにしても、彼と一緒に、彼の分も、描きたいとさえ思った。そして、彼は私に、言葉ではなく、絵そのものから絵を描く楽しさを教えてくれた。彼の描く絵には、絵を描く楽しさや喜びが塗りこめられていて、放射していたんだと思う。そんな絵を私も描けたらいいなと思う。

「おれ、じいちゃんが死んだ時、しっかり生きろよって言われた」

「亡くなる時?」

「いいや、じいちゃんの死に目には逢えなかった。死んだ後、お通夜の晩、ロウソクの番してた時…夢だったんだろうけど、じいちゃんに言われたことは確かなんだ」

「うん」

「あの頃、会社でそれなりに成果も上げて、頑張ってたつもりになってたけど。しっかり生きろって言われた、そう言われたと思った自分の心を見た時、なんか、じいちゃんの言う”しっかり”とは生きてないなって思った。わかんないけど、そう思った。誰かが死ぬって、何かしらすごいメッセージを残していくよな。正真正銘、命がけの何かを残していく。その人の生と死をもって…すんごい力で、すんごいもんを残していく。それを感じること、聞くことが、ひとつのほら、供養ってのになんのかな」

 じんくんは大きく息を吐いて、そのまま黙った。


 次の日の朝、まだ薄暗いうちに、私は一人川へと向かった。少しひんやりとする澄んだ空気の中を、私は歩いた。朝焼け色にほんのり染まる雲の端を見て、涙が溢れそうだった。私は、彼の実家を訪ね、お参りさせてもらおうかと、何度も思った。しかしどうしても行けなかった。だから、せめてこの思い出の場所で、彼の冥福を祈ろうと思った。彼と出会い、それが最初で最後となったこの川が、私にとって彼を一番近くに感じられる場所だったからだ。川原は、まだ夜の雰囲気を放っていた。私は少し恐ろしくなった。それでも、意を決して川原を降りると、あたりは紫色に染まっていて、ほっと安心感に包まれた。私は、昨日いた場所に辿り付くと、目を閉じた。そして流れに向かって手を合わせた。ぎゅうっと目をつぶって、祈った。彼の幸せを心いっぱいに祈った。彼が残してくれた命がけの贈り物を、私はずっと大切にしていこう。それが、私に絵を宿してくれた彼への恩返しになると信じて。

 しばらくすると、パッと明るくなる一瞬が瞼の裏からわかった。山際から太陽が姿を現した。その光をとてもうれしく思った。太陽の方へと目を細めると、少し微笑んだ。そして、私は、キラキラと輝き出した水面にそっと昨日描いた絵をあずけた。川音がレクイエムとなって、絵は光を浴びて流れていった。祈りをのせて、流れていった。


読んでいただきありがとうざいます。

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