そして迎えるエンドロール~猫~、の4
また突飛なことを言い出したものだ。
外で降る雨の気配が弱くなったのを感じる。
まあ、これならいずれ止むだろうが。
わざわざ雨に濡れに行こうという酔狂の気がしれない。だが、外に出る好都合ではある。自分で歩かず済むというのは、今の体調を考えれば有難い。
少し準備してくる。
そう言って階下に行ったやつが持ってきたのは、大きめの水色のバスタオルだ。
これは、巻くのか?
自分の体に、クルリとバスタオルを回しかける。
おお、これはスピルバーグの。
「どうだ。シーツでないのが残念だが、セミリアルE・Tに見えなくもあるまい。それとな、ゴミ袋をくれるとありがたい。被れば濡れんだろうしな」
もっと素直に喜べよ、といったようなことを、笑った口調でやつは口にした。
「無理につきあってやろうというのだ。ビールだけではなく、私の好みそうなものを複数買うことを心がけて、財布を重くしていけ」
買い物に行っている間に自由になる時間があるやもしれん。
やや雨は降っているとはいえ、自転車での移動は快適を極めた。ことに入れられた籐籠の居心地はすこぶる良好で、バスタオル越しに体に伝わる振動さえ安眠につながりそうだった。
売れるぞこれは。
こいつの御母堂の才能には恐れ入る。なにかひとつでも遺伝されていれば仕事につながる特技にもなろうが、今のところやつにその片鱗は窺えない。それどころか、
「そんなことより、乗りづらいとかそういったことはないか?」などという始末だ。
そういう気遣いは大事だが、己のことをもっと心配すべき時だ。
まあ、今それを論じたところで詮なきことだが。
「きわめて快適だ。車にも乗るには乗ったがトランクであったし、景色を見るような状態でもなかった」声が、前から来る風で後ろに流れていく。
あの87―86の車は、音楽がうるさいうえに派手に揺れた。思い出しただけでも、具合が悪くなる。
自転車は果樹畑や田圃、点在した家々が構成する田舎の風景を両脇に、まっすぐ伸びた緩い斜面の道をひたすら登っていく。周囲が緑主体になるにつれ、空気の鮮度と温度が変わってきた。空気は新鮮に、温度は低く、音は自転車が奏でる風切り音だけだ。顔に当たる雨が減り、粒も小さくなる。
雨は、すぐにも止みそうだ。
減速したのがわかった。自転車が緩やかな坂の途中で止まる。
自転車の向きを来た方向へと変えると、斜め上に見えていた景色が一転した。
ずいぶんとまた、登ったものだ。
びょう、と風が強く吹いてやつの背中に当たり、ふたつに割れて風下である東のはるか下、眼下へと奔っていった。おぼろげな視界でもそれがどんな風景であるかは理解できた。
「驚いたな。ここはすり鉢のような街だったのか。水を入れたら沈んでしまうのではないか?」
私の言葉に背後でやつが街についての解説を始めたが、いくら指をさしたところで今の私の目では霧の中に浮かぶうつろな影をひたすら示すようなものだ。
空と、山影、樹々。それらが微妙に混ざった不明瞭な姿以外は、映らない。
余韻に浸っていると、風に乗って蒸留酒の匂いがしてきた。顔をやつの方へ向ける。
こいつ、飲んでおる。しかも私のあまり好まない、ウイスキーだ。
だが、酒を自分一人だけで飲むなどとは。
こいつの分際で、ずいぶんおこがましい話だ。
ウイスキーは寒い折をしのぐ必需品で、遭難時の気付けにもなる。
「寄こせ」と私が一言告げると、やつは小さな瓶のウイスキーを差し出してきた。
瓶、瓶のままだと?そこはせめてスキットルに入れるべきだろう。
匂いを嗅ぐまでもない。最低の安ウイスキーだ。
ひと舐めしただけで気分が悪くなる。
「お前、格好をつけたいのもわかるが、サマにならんから止せ。傍目で見ているとただの中毒者にしか見えんぞ。そういうのが決まるのはバイカーかもしくは旅人だけだ」
精一杯の嫌味を含めた言葉を、口に出す。
せめて私の飲めるものを用意しておけ。気の利かない。
雨が、止んだ。
そういえばこいつの家に世話になって、もう一ヶ月を少し過ぎたくらいにはなるか。
これまでに、こいつは一度として私の素性について触れてこなかった。
おかげで、私はたまに自分が人語を話し、時に二本足で歩くことをするのがそう珍しいことではないのでは?と疑う瞬間ができた。勿論そんなことが普通であるわけもなく、ほかのどの猫も四つ足で歩くし『にゃあ』としか基本鳴かない。
単にやつが面倒くさがりなのか、はたまた他人に興味がないのか、それとも俗にいうところのアニメ脳であるからなのか。
まあ、おかげで私は気兼ねなく過ごすことができたわけだが。
今なら宇宙戦艦ヤマトで沖田艦長の言った「地球か。なにもかもみな、懐かしい」という名言の意味も少しはわかる気もする。
何もかもが懐かしいとまでは言わないが、私なりにこの街への愛着は出来た。
あとはこいつのことだけだが、まあなるようにしかならんだろうし、この先のことについては私の及ぶところでもない。
だが、不思議と、心配する気にはなれなかった。
「もうゴミ袋は要らんな」
多分、大丈夫だろう。
こいつのことだ。紆余曲折しながらも、きっと目的地には辿り着く。




