戦いすんで、日が暮れて、の7
公園は平和だった。
気温はすっかり落ち着いていたし、日差しも穏やかで公園の芝生に落ちる影も青みがかって見えた。
小川に太陽の光が照り返って小刻みにさざめきを繰り返す。小さな、鯉だろうか、魚が数匹水の中を気持ちよさそうに行き来していた。
「ああいった魚は、食べたら美味いのかな?」
背後から風彦の声がした。
「さて。鯉は甘煮がいいというが、残念ながらまだ口にしたことはなかったな」
寝ころんでいた状態で顔を向けるでもなく、私は目だけをゆっくりと開く。
風彦がこちらに来たのはとうに気づいていた。
風彦もその点を察したのだろう。わざわざ警戒させる気はないといった具合に、声をかけてくれたのだ。
彼はそういう気づかいが出来る男だ。
「温泉に行ったのではなかったのか?行かないまでも、この公園は相棒の家からも遠かろうに」
「くがねはお前さんの相棒に彼女なりの借りを返しに行くんだそうだ」
となりに来た風彦が、公園を渡る風を一身に浴びた。わざわざ風を浴びるためだけに風上に立つのは風彦のクセなのかもしれなかった。
「くがねの事を訊いたのではない。私は『なぜお前が相棒の家からも遠いこの公園にいるのだ?』と訊いたのだ」
すっかり灰色の定着した風彦を仰ぎ見る。
「つれないな。一緒に戦った仲じゃないか」
「お前はお前の。私は私のできることをしただけだ。自分の立場や環境を守るのは当然のことじゃないか?」
風彦は意外そうな顔をした。
「縄張りには興味がないのじゃなかったか?」
はじめて会った時のことを言っているのか。だとすればその問いかけには語弊がある。
「今回は色恋事じゃない。命の存続の危機への抵抗だ」
縄張り争いとは違う。
風彦の理屈っぽさに、意図せず鼻が鳴った。どうでもいい話だ。そもそも風彦の本心は今のこのやりとりの中にはない。
子供たちが公園を走り回る楽しげな声が聞こえてくる。視界の端っこで親に追われてはしゃぐ赤い服の少女の姿が目に入る。暴れるようにばたつかせた手足と、彼女が懸命に走り進む距離は驚くほど比例しない。
「答えたくないのなら、答えなくてもいい。事件の時に僕らが見た大量の血液は、君のものなのか?」
風彦の視線がこっちに向いているのがわかる。わかってなお、そちらを向くことはしない。耳が、寝てしまうのは、もはや反射だ。長い沈黙が続く。
遊んでいた子供はしばらく気ままに走っていたが、やがて疲れが見えた頃合いに親に捕まり、高々と抱きかかえられる。大声で叫び、次いで壊れた鐘のように笑う。
「答えなくていいと言ったからって本当に答えない道理があるか」
沈黙と、時間の経過に耐えられず、風彦がこぼす。
おびただしい血の臭いが、今も風彦の鼻には届いている。しかしどうしてか、目の前の三毛猫は泰然としており、その体には傷ひとつ見当たらない。
アニマル・キラーの車にも残っていた血の量は、ゆうに猫一匹の致死量を超えていた。捕まえた主犯格の男も、くがねに縛りあげられる際に「あの猫は確かに殺したはずだ」と言っていた。
猫が手品を使えるとは到底思えないし、ああいったものには決まってタネがある。
事件の夜に公園の方から立ちのぼった光の正体だって、この猫の仕業に違いないと、風彦は直感的に感じていた。
しかし風彦が昨日かけた鎌は、あえなくスルーされた。
「用がそれだけなら、とっとと帰れ。ここから街まででも結構な距離なはずだろ?温泉に間に合わなくなるぞ」
ようやく口を開いた三毛猫は、それだけ言うと、今度は置物のように動かなくなった。
こうなるともうどうしようもない。自分がそうであるが故、それはもう不変なのだとわかるからだ。
あら、もう帰るの?
風彦の帰りしなを、黒猫の水晶が呼び止めた。
「大丈夫?ジョン・ドゥ以上に死にそうな顔をしているけれど」
表情が曇ったのが風彦自身にもわかった。
「死にそうか。違いない。だけど僕よりあいつの方がもっと重症なんだろ?違うか?」
水晶は風彦をじっと見て、笑った。
「いつかの雨の日の占いは外れたけれど、今なら外さない自信があるわ。あなた、しばらくは死なない」
「僕はあいつの事を訊いているんだ。変に茶化すのはやめてくれ」
あらあら、と水晶は残念そうな声を出す。風彦はかつての占いのことなどは忘れているようだった。
「ジョン・ドゥは私の占いには嵌まらない。彼にも言ったけれど、抜けていくのは――」そう言って、夏の終わりの青天を見上げる。
「ああいう変わり種は、見過ごせないんだよ」悔しそうに風彦は俯き、とぼとぼと立ち去る。
そのまま伝えておくわ、と風彦の背中に水晶が言葉をかけた。
「帰っちゃったけど、いいの?」
水晶が、今度は横にいた。
「良いもなにもない。この公園の危機は去った。結果、悪党はいなくなり、ゼン爺たちにとっても今回はいい話になった。ミイコの飼主は実にいい働きをしてくれた。多分にああいうのを大岡裁きというのだろうな」
「遠山の金さんかしら?」
水晶の言葉に首を傾げる。そうであるかもしれないしそうではなかったかもしれない。
「最近、夕方に時代劇が放送されていないからわからないな」と、同居人の父親が言っていた台詞を水晶に告げた。
目を閉じて寝たふりをする三毛猫に、水晶は視線を落とした。
占わなくても確かに感じる。
彼の命がそう長くはないことを。




