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オタクな僕と奇妙な猫  作者: 大原 藍
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嵐、の14~風彦~

 夕方過ぎから急に雲が増えてきたと思ったら、日没を待たずに雨が降り出した。

 春の雨にしては珍しく勢いが強く、アスファルトに弾く雨は四つ足の風彦の目線よりも高く上がった。

 そういえば天気予報で、ここの隣りの地域は夕方ところによっては崩れるかもしれませんと報じていたことを思い出す。

 あてにしていたヨーコのお供えが空振りだったことで、風彦は公園外の餌場へ遠征に行った帰り道だった。グループのために鶏のササミも土産に手に入れてきた。量は少ないが極上品だ。少しずつでも分ければ、とりあえずの空腹は凌げるだろう。


 公園にエンジンをかけっぱなしの黒い車が停まっていた。太陽が沈んでいることと、雨雲のせいで周囲はとても暗く、隙間なく降っている雨が視界を遮っていた。マフラーから立ちのぼる白煙が雨に射抜かれて窮屈そうだ。

 物陰から物陰へ、ひたすら雨を避けて公園の中に入っていく。雨天の際に猫たちが固まる場所は決まっていて、この時ばかりは普段縄張り争いをしている猫も相見互い身でひたすら雨がおさまるのを待つ。

 ようやく避難場所の近くにさしかかった頃、草影から勢いよく複数の影が飛び出してきた。口々に警告を発して蜘蛛の子を散らす姿は、猫たちだ。道路に飛び出すゴム毬のように一直線に、茂みから茂みへと駆け抜けていく。

 「どうした。なにがあった」

 答える声はない。「ヤバい」、「逃げろ」、「殺されるって」切れ切れに雨の中を飛び交う叫びに、神経が波立つ。気がつけば、風彦は猫たちの逃げ出してくる方向へと足を向けていた。


 叫び声。怒号。猫の悲鳴。金属がぶつかり合う音が複数回、鋭い雨を裂いて鳴り響く。


 猫たちが飛び出してきた草影を抜けると、今度は厚底靴を履いた人間の男たちが石畳を踏みつけながら猛スピードでこちらへと走ってくる音が響いてきた。

 最悪の視界の中、灰色の猫の姿は周囲に同化していたのだろう、風彦の頭上、すぐ真横を嵐のように通り抜けていく。男たちの足どりからは戦意は感じない。ただ、その場から一刻も早く立ち去ろうとする慌しさだけは感じとることができた。


 遠くで、車のドアが無造作に閉まる音がして、ほぼ同時にアクセルを急に踏まれた車がタイヤを派手に鳴らして走り去る。


 車が去り、人気が完全に消え去った灰色の公園に、激しく叩きつける雨の音が戻ってきた。

 けたたましく公園の石畳を穿つ雨の中、風彦は横たわる大きな黒い影を見て、駆け寄った。

 最初は、大きな黒い犬が死んでいるのかと思った。

 ピクリともしない黒い塊。

 しかし、黒い塊からは嗅ぎ慣れた匂いがした。

 黒い塊から、石畳の継ぎ目を縫って、赤黒いものが流れて止まらず、放射状に広がっていく。

 次の瞬間、風彦は、その塊がいったいなんであるのかを理解した。


 冬を間近に、生まれたばかりの猫が、目を開けることもなく死んだ。まだ小さく、への字をした口からはか細い声。ふわっとした体毛は、愛されるのに十分な主張があった。

 それでも、子猫は死んだ。かろうじて救われたのは、苦しまなかったことと、五体満足で怪我がなかったこと、それと看取ってもらえる誰かが傍にいたことくらいだ。

 「もう少し早く来てあげられれば」と、あの時ヨーコは子猫の亡骸を抱えて泣いた。


 死は、いつだって近くにある。それは猫に限らず人間にも当てはまることだ。

 なにも『ヨーコ』だけが特別なわけではない。


 雨が激しさを増してきていた。ヨーコの髪や服に、無数の針のような雨が突き刺さる。


 風彦は、吼えた。『近くに仲間がいるなら来てほしい』と、叫んだ。しかし無情にも激しい雨が声をかき消す。公園を駆けまわって、人影を探す。普段雨でもないのに赤い傘をさして歩く太った婦人でも、いつもサングラスをして耳にイヤホンをし、空き缶をそのへんに無造作に捨てていく男でも、この際誰でもよかった。


 『助けてくれよ!あんたら人間なんだろ!猫より高尚な生き物じゃないのかよ!あんたらの仲間が死にそうなんだって!』


 生まれてこの方、全速力で走ったのはいつ以来のことだっただろう。公園に人の来る様子はいっさいない。少し考えればわかりそうなものだ。こんな強い雨の日に、外に出て、まして公園なんかを歩く人間などそうはいない。灰色の視界はいよいよ濃く、周囲は重い色に変わってきていた。街灯はひたすら降り注ぐ雨ばかりを照らし、それ以外の存在を見せてはくれない。人間の臭いを探ろうにも、雨が邪魔をして鼻が利かない。声は、もうさっきからかすれている。

 濡れて、重くなった毛が、地肌にべったりとはりついて、鬱陶しかった。灰色の夜に灰毛の猫は保護色だ。自慢の金色の瞳は、雨の斜線が邪魔で光りもしない。

 いっそ公園を出て、車に飛び込もうか。撥ねた猫を気遣った運転手にヨーコのことを伝えれば、あわよくば助けてもらえるかもしれない。

 すぐに思いなおす。

 だめだ。あいつら(人間)は猫の言葉がわからない。


 あきらめかけた時だった。


 『こっち。人がこっちに来るって!』声だけがした。雨の中に、かろうじて浮かぶ小さな影。

 猫がいた。風彦が近寄ると、その猫は風彦が次に向かうべき方向だけを示す。『まっすぐ自分の鼻の先の方へ走って』風彦に声をかけた猫が、また別の猫に声をかけていく。『左だ』、『斜め右、少し、左、そうだ、そっちだ』視界のほとんど利かない風景の中を、声だけを頼りに風彦は走った。猫たちの声のリレーに、躊躇わず従う。鼻と目を突き刺す雨粒が当たって、目が開かなくなる。とりどりの猫たちの声だけが、風彦の耳に入っては抜け、また入っては抜けていく。


 どれだけの時間を走っていたのかしれない。視界が急に開けたかと思うと、そこは公園の端っこだった。雨は変わらず降り続いていたが、傘を片手にした人間の女の姿はどうにか見えた。

 『あんた。頼むよ。ヨーコを助けてやってくれよ』

 すがる思いだった。声がちゃんと出ていたのかさえ、覚えていない。


 ただ、その女は間違いなく「わかった。あとはまかせて」と答えた。


 


 

 


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