嵐、の13~くがね~
昨日の夜のことを訊くと、ヨーコは眉間にしわを寄せて何度も頭を掻いた。そのうえで、
「別に今こうして帰ってきてるんだから、よくない?」と言った。
「昨日、自分のことを緑のペンキで塗ってくれって言ってましたけど、そういうのも忘れたんですか?」
えー?そんなこと言うかなぁ。猫をいじめる馬鹿どもになら塗ってもいいって言うと思うんだけどなあ。あたし本当にそんなこと言った?
「冗談です」
くがねは牛乳をたっぷり入れたカフェオレを、ヨーコに渡しながら、悪戯っぽく笑った。
「でも、なんで緑色なんです?」
「いい質問だね。実は猫の目ってのはね、緑色をよく判別するのさ。悪い奴らが緑色してたらさすがに猫だって近寄ったりしないでしょ」
なるほど、と素直に感心する。
「でも、猫ってモノクロの中で生きてると思ってましたけど」
今の研究では、違うみたいよ?ヨーコはカフェオレを口に含んだ。すぐに顔をしかめる。
「ちょっと、くがねちゃん。これ、ちゃんとウイスキー入れてくれた?」
「二日酔いのヨーコさんは味の判別なんてできないと思ったので、入れてません」
「ひどいなぁ。二日酔いの時は入れてくれなきゃ」
この間、自分で全部飲んじゃったの覚えてないんですか?
「そんな昔のことは、忘れたね」
「またそんなカッコいいこと言って。ないものは入れられませんよ」
ちぇっ、とヨーコは舌打ちして、カフェオレをまたひと口含んだ。珍妙な顔をする。
「でもこれ、砂糖入れ過ぎじゃない?甘い通り越して少し苦い気がする」
「そうですか?ちなみに、カフェオレに入れたの砂糖じゃなくて、蜂蜜です」
ふふん、と、くがねは嗤った。
「しかも先輩の秘蔵のマヌカハニーです。ただの蜂蜜じゃないですよ?」
「嘘お!あれ凄く高いヤツなんだけど!」
ヨーコの目が飛び出しそうになるほど開いた。
たっぷり入れときました。目が覚めたみたいでよかったじゃないですか。朝からお酒飲むよりずっといいですよ。
いつもの日常だ。
そういえばさ、くがねっち、今日の夜って何か予定あったりする?
軽めの朝食を済ませた後、ヨーコがあらたまったふうに話しかけてきた。
「父が上京ついでに近くまで来るっていうんで、夕方待ち合わせなんです。なにかありました?」
「いやね、あたしがよく行く公園で今日仕事があるから、くがねちゃんもどうかなと思って。あ、いや、予定があるんじゃしょうがないね」
テレビで流れている今日の天気予報は晴れで、降水確率は一割だった。だがそれは、あくまでこの地域を示したものだ。なぜかこのあたりは隣りの地域の天気予報がよく当たる。
「じゃあ、私、父に予定を少し早めにしてもらいますよ。終わったらすぐ駆けつけるようにします」
親子水入らずなのに悪いね。この時ばかりはさすがにヨーコの顔にも悪気がうかがえた。
父との待ち合わせは、当初午後七時だった。ただ、ヨーコとの約束も考えて、午前中の内に父にメッセージを送っていた。
今日、午後五時くらいの待ち合わせに変更にならない?―既読―
おかしいな。メッセージくらいあってもよさそうなのに。電車の中で待ち合わせ場所に向かう。八時にはヨーコと合流したかった。お気に入りの猫のいる公園が猫狩りに遭うという情報のようで、彼女にしてみればどうしても阻止したい案件らしかった。賞金額が安価なため、人気薄らしい。
「こういう案件こそ、無償でやるっていう気概が欲しいよ」と彼女は憤慨するが、生業である以上、受けるか受けないかは退治屋の自由だ。
そんなことを考えていて、くがねはつい、目的の駅ひとつ前に電車を降りてしまった。
次の駅までは、歩いても十分はかからない。
仕事終わりにはまだ少しばかり早い時間帯。街頭やネオンが薄暗がりの街に灯りはじめ、ぼんやりと明るくなっていく。低いはずの降水確率を予想していた街には、なぜか湿った空気が差し込んできていた。
次の駅までの近道は、裏通りをかすめて通る細い道。色恋に惑った蛾を呼びこむだけの、ピンク色をした派手な光が明滅する静かな通り。
バツの悪さも手伝って、くがねは思いついたように、父親に電話をかける。
と、携帯の着信を告げる音が、近くで響いた。
愛を語るという名目を冠したホテルから、今しがた出てきたばかりの二つの影。その片方が、ポケットを探る動きをした。
娘だ。悪い、ちょっと出る。声を、出さないで。くがねの目の前で、女性らしき影を離す男。
「ああ、お父さんだ。待ち合わせにはまだ――」
早い、ホテルから出た男性は、その場で鉢合わせしたくがねを見て、その言葉を、止めた。
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