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オタクな僕と奇妙な猫  作者: 大原 藍
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嵐、の8~風彦~

 木陰で風を受けて流れていく景色が好きだった。視界の端から端まで風が渡っていく様は、見えていない風をあたかも可視できている錯覚がある。左側の葉がそよぎ、公園の真ん中の芝生が右へ傾く。中央を縦断する小川の表面をなぞる真っ直ぐな流れが歪む。

 やがて、すうっと空へ風は還っていく。巻き込まれた草が勢いよく中空へ舞い上がる。

 目が勝手に風を追っていた。

 猫はよく何もない空間に視線を走らせる。何が見えるというわけではない。まして、風のように姿のないものを見ることはできない。猫自身が感じるあらゆることを、感覚のままに視線を乗せて辿らせているだけだ。

 周囲に音はなく、温かな日差しが毛の先っぽを、ちり、と炙る。熱くはない。心地いい熱が、ゆっくりと地肌にしみてくる。

 「黄昏てるねえ」背後で声がした。影で日差しが阻まれる。

 来たよ。正直なところ、邪魔されたくないタイミングを見計らったかのように、こいつは現れる。こちらは貴様の登場に期待などまるでしていない。

 女は、また手になにか持っていた。この間のものなら食べてやってもいいが、その前にこちらの優雅な時間を邪魔したことを謝罪すべきだ。

 「にゃあ(まず、謝れ)」と、不機嫌に鳴く。

 こちらの表情でかろうじて察するのか、「もしかして邪魔だった?」のような顔をした。女から顔を背ける。

 わかっているなら構わなければいいのだが、それからも女は当たり前のように現れて、当然のように声をかけてきた。


 不思議なもので、頻繁に声をかけられていると、そうとは知らないうちに相手が言わんとしていることの端っこくらいは理解できるようになっていく。

 僕の場合は、コイツの名前がどうやら「ヨーコ」で、毎回去り際に渡していくモノが「オソナエ」ということだった。

 ヨーコが僕を呼ぶ時は、毎回違う言葉で話しかけてくるので、面倒な時は「オソナエ」にだけ反応するようにした。で、僕が好んで食べる「オソナエ」は、どうやら「チーズ」というらしかった。

 「猫~。『ヨーコ』が『オソナエ』持って来たよ~。『チーズ』あるよ~」

 この時にだけ愛想良く「にゃあ」と鳴けばいい。

 ヨーコは手ぶらで来ることもある。また、オソナエが、カリカリいう硬めのシリアルの時もある。不満そうに鳴くと、次の時はきまってチーズを持ってきた。

 ヨーコは空腹を満たしてくれる人間。そう僕の中で位置づけした。

 オソナエさえきちんとくれるのであれば、ヨーコが来ても許すことにしよう。

 「それにしてもおまえ、本当になつかないね。私の家、ずっと猫飼ってるからさ、嫌われる要素なんてないと思ってたんだけどな。そうだ、いつまでも『おまえ』とか『猫』じゃさまになんないから、名前つけたげるよ。どうせほかでもいろいろな名前で呼ばれてるんだろうけど……そうだな」

 ヨーコは長々となにかを言っていたが、こっちにはさっぱり伝わっていない。そもそもが僕の方で必要な言葉しか拾うつもりがないんだから、仕方ないと言えばそうだが。

 ヨーコが思案しているくらいのことは、見てわかった。唐突になにかするならチーズだけをくれればいい。それ以外は正直どうでもいい。

 「よし決めた!おまえいっつも風を追って見てるだろう?だから今日からおまえは『風彦(かぜひこ)』だ。風の、彦で、か・ぜ・ひ・こ!だ。どうだカッコいいだろう」

 うかれた女が、また突拍子のないことを言いだしたのだろうと思った。

 だが、僕はこの女の言った『カゼヒコ』という響きが、どうにも耳から離れなくなった。

 この公園の先達が言っていたことを思い出す。


 生きている間に数千の名で呼ばれたが、私が生涯惹かれてやまない言葉は、たったひとつと決めた自分の名前だった。


 生涯飼い猫にもならず、おそらく死を迎えたであろう老猫の言葉だった。

 猫は、なぜかその多くが自分の死期を悟ると住み慣れた場所を去り、孤独に死ねる場所を求めて姿を隠す。自分も死に向かう際はそうあるべきだと考えている。その老猫もほどなく公園から姿を消した。


 ヨーコが誇らしげにこっちを見ていた。僕に、カゼヒコという名をつけたことで興奮しているのだろう。本当に単純で、どうしようもない女だ。


 だが、『風彦』という言葉は悪くない。これからは自分のことをそう呼ぶとしよう。


 ふと頭を過ぎった。かつてこの公園で誰かから名を受けた先達の老猫は、自分の死期を悟ったのち、本当に孤独で死ぬために公園を離れたのだろうか、と。

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