ホスト、肉を焼く(2/3)
さて、焼肉は終盤。
どんな夜になっていくんでしょうか。
蒲田はどうなるんでしょうか。
「お兄ちゃん、最期のアニメ、なに観るの?」
トングを持つ俺の手首が、キッチンコンロの端に当たった。
手首にはめた中古のデイトナが、指していたのは、20時12分。
先輩から、高級時計は利き手に着けてその手で客に触れって教わった。
ロレックスの王冠マークに恍惚とする程度の客が狙い目と説明された。
あまりよくわからなかった。
ただ、郷に入りては郷にしたがった。現実を泳ぐためだった。
とにかく金の心配なく食える生活を目指しただけだった。
「逃げたくても、福岡行きの終電、どのみちもうないっぽい」
トングは優雅にフライパン上空から、ロース肉に上陸した。
香ばしい脂の香りが髪にも服にも、デイトナにも染みた。
ロースも終盤に差し掛かったので、
俺はミユに冷凍庫からアレを持ってこいと命じた。
そして、新しい紙皿を一枚出して、プラスチックのスプーンもひとつ出した。
「今日は黄色のソルベだねい。何味?」
ミユは冷凍庫からバットを取り出して、コンロの近くに置いた。
5分だけ室温で解凍して、プラスチックのスプーンで扱える温度にする。
割り箸でも使い捨てスプーンでも、触れていたものがいきなり折れるのは
なんとも不幸な感じがするから。
「グレープフルーツ」
味付けハラミ(メインであり、クライマックス)を万全に迎えるための、
口直しの自家製ソルベ(シャーベット)だった。
客が教えてくれたフレンチのコース料理で知った。
客は「メイン前の味覚のお色直し」と言っていた。
レストランのテーブルに、その晩飾られてた花の赤を、俺は今も覚えている。
どうしてだろうな。
彼女はいまでも俺のエース級の太客(多額の売り上げに貢献してくれる常連客)だ。
「さすがに皿とスプーン、分けるか。衛生的に」
俺が立ち上がると、
ミユはいいよいいよ、とスプーンでバットに張られたソルベを
一掃する勢いで紙皿に盛り始めた。
「感染予防」がんばったってさ…明日にはもう蒲田滅びるし」
ミユはそれだけ言って、目を伏せて黙った。
深皿にソルベを盛る手だけ動かしていた。
俺はさすがにスプーンだけでも分けようと、
棚から自分用にプラスチックのスプーンを取り出した。
口直しのシャーベットは欠かせない俺の焼き肉儀式だけど、
実際はミユがそのソルベのほとんどを食べ尽くす。
いつもミユはデザート代わりにしこたまソルベを食べて、
ハラミは食べなかった。
俺は、ひとくちかふたくちソルベを愉しんで、
フィナーレよろしくハラミにとりかかる。
「明日には滅びるから? 衛生的とかどうでもいいって?」
俺がノリを合わせて言うと、
「うん」ミユは頷いた。
声が震えていた。
バカじゃねえのと思った。
でも言わなかった。
ハイネケンが体に回り始めてたからだと思う。
どうして自宅で飲むと酒って回りやすいんだろう。
ミユが肉をたかりに来た日は特に酒が回りやすい。
俺は酒が回ってる時に、バカとか好きとかのエクストリームワードを、
ミユに言わないようにしている。
偉いも可愛いも言わない。ミユを巻き込んで酔わない。
仕事のときは、できるだけその類の言葉を言うように心がけている。
客を巻き込んで酔う。
ていうか、客だけしこたま酔ってくれるとありがたい。
「もう暗い話するの、やめよ?
最後の夜はたのしく、たのしく、ね?」
暗くなってるのお前だけだよ。
言いたかったけどそれもやめた。
何を言いたくて何が言いたくないのかの境界線が、
ぼやけてきていた。
「今日は私もハラミまで行くよっ」
珍しくふたくち分ずつしか使われなかった2つのスプーンは、
ハラミが始まるとゴミ箱に、ポイっと捨てられた。
お兄ちゃんライスをください、とミユは戸棚を探って、
『サトウのごはん』をレンジにかけ始めた。あ、ちょっとここで断言していいすか?
こんなによく食う女は滅びねー。
「夢の代償」というセリフを、
客のソルベ姫は俺によく囁いた。
店で、「シャンパン入れるね、夢の代償みたいね?」
ソルベ姫の家に誘われて行くと、「ギュッてしてよ。夢の代償ってやつだよ」
なんだよそれセンス悪いなってイライラしたけど、
あながち核心を突いてるのかなとも思った。
でも、本質的には彼女の意図する意味をわかっていなかったと思う。
ソルベ姫は自分語りをしない珍しい客だった。
「あたしかわいそうなの、甘えたいの」アピールをしない客だった。
俺はどの客にも、
アニメーター諦めてホスト始めてイトコの学費稼いでるって話してた。
かわいそうって思われたいわけじゃなかった。
俺の現実を俺の現実的取引相手たちに、
透明性をもって情報共有しただけだ。
でも先輩は、
夢破れた男にコロイチになる客狙えって、
教えてくれた。
教わった通りにしてみた。案外うまくいった。
相性・欲望・環境を揃えるための適切なコミュニケーション発信をすれば、
道は拓けるのかもしれない。
かわいそう、応援したい、私も同じよ抱きしめて。
わかりやすい女の視線に、意地悪く応えるのが俺の仕事だった。
「おい、食ってすぐ寝るなよ」
俺はソファで仰向けに寝るミユを揺さぶった。
おなか一杯、無理と言うミユは言った。
「俺の焼いた肉で満たされたなら、まあ許す」
この調子なら、もう滅びるやらお告げやらは言わないだろう。
平和。自分でつくりだせるサイズの平和。
俺は風呂の準備をしにバスルームへ向かった。
別にミユのために風呂を準備するんじゃない。
煙たい体のままベッドに入る気がしないだけだ。
それに、俺は出勤前と帰宅後に、必ず風呂に入る。
湯船に浸かって汗も愚痴も老廃物も出し切る。
生活を区切るのにも、ストレスにも効く。
そういうことの積み重ねが、俺に自家製ソルベを作らせたんだと思う。
湯船を洗いながら、「ユメの代償」って口に出してみた。
バスタブには、今朝帰宅直後に俺が入った湯が張られたままだった。
まだぬくい。
俺は底栓を抜いて、バスマジックリンを風呂水位の外周に向かって振った。
ゆっくり湯が抜かれて、水流が栓に向かって形成されていく。
ゆっくりゆっくり確実に、水位が下がっていく。
湯船に浸かる余裕なんて、アニメーター時代は無かった。
そもそもバスタブがなかった。
実家に仕送りすることも無かった。
「アシタ、滅ビルマエニ」
シャワーしか浴びなかったころから、
俺は風呂場で独り言をよく吐いた。
吐けるだけ吐いた。
アニメーター時代は、シャワー浴びながら、口開けて唸った。
どうなっていくんだろう、風呂場が不安を吐く場所だった。
お湯が唸り声を包んで、ぼやかしてくれた。
「クエン、ネレン、ミエン」俺は、本当に今夜は何言ってるんだ。
ベッドルームから、おにいちゃーん! 大変!
とミユの声がした。今度はなんだろう。
バスタブから湯は完全に抜かれ、水位の外周の泡が薄く底面に拡がった。
俺は、マジックリンを染み込ませたスポンジで全面を念入りにこすった。
風呂桶もサッと洗って泡をくぐらせて流した。
そして、湯を張るスイッチを押すと、丁寧に濡れた足を拭った。
足の指と指の間も丁寧に水を拭った。
最後に、靴下を履いてスリッパを履いた。
要するに、俺はミユのもとへ飛んで駆けて行ったりなんかしなかった。
絶対くだらないことだろうから。
五反田が溶けるとか、巣鴨が失神するとかさ。
(つづく)