お題『失恋』 短編
◇
禍々しい魔力がすぐそこまで届いているとは思えないほどに、静まり返った夜。
眼下の湖面に、月の光が音もなく漂っている。
魔王城から、そう遠くない場所にある森――この辺り一帯の土地は魔王軍の強力な配下達によってそのほとんどを酷く荒らされてしまっていたが、この森だけは、手付かずのままの美しい自然の姿を保ち続けていた。
森の中心部に位置する大きな湖に、神代の力を持った精霊が今もなお宿っており、その加護によって魔物の侵入から森を守ってくれているのだ。
魔王城が目の前に現れるまでは、森の中にはいくつかの集落があった。
この森が位置する地方は、経済の中心である王都からは幾らか距離があり、金銭的にはそれほど裕福ではなかったにしろ、豊かな作物に恵まれた穏やかな暮らしがあったはずだ。湖の精霊を崇める独特な宗教文化や、その加護を大いに浴びて育った作物たちは、王都にまで伝え聞くほどの名産だった。
しかし現在――この森に人の気配はもはや無い。ここで暮らしていた人々は既に全員、魔王の目の届かない遠く離れた街に避難している。王都へ逃げたという人も、きっと少なくないだろう。それも当然のことだ。たとえ精霊のおかげで森の中には魔物が這入ってこないと言えど、すぐそばに魔王城があるなどという状況に耐えられる人間など、普通はどこにも居はしない。
――そう。魔王討伐を明日に控えている、私たち勇者一行以外には、誰も。
「眠れない? 《女賢者》さん」
静かに寝屋を抜け出してきたつもりだったが、どうやら起こしてしまったらしい。
湖畔のデッキで月あかりが揺蕩う水面を独り眺めていた私のもとへ、《勇者》クンがやってきた。立ってフェンスに肘をつく私を、彼は近くのベンチへと手招く。
このベンチの長さなら、隣に座っても、肩が触れ合うことはない。
「《勇者》クンこそ。寝てなくて良いの? 明日はいよいよ最後の戦闘でしょ?」
呼ばれるがまま《勇者》クンの隣に座りながら、質問に質問で返す。
勿論これは、私のことが心配になって探しに来たんだと言って欲しかったがための返事だが、《勇者》クンがそんなことを言うような人ではないのは分かっていた。
「俺は大丈夫。そんなことより、《女戦士》さんが心配してたよ。ふと起きたら部屋に《女賢者》さんの姿がないって」
「……あの子、あれだけ飲んで騒いで寝落ちしておいて、よく気が付いたね」
私たち勇者一行の冒険は、いよいよ最終段階にあった。明日になれば、私たちは魔王軍の本丸である魔王城へと攻め込み、最奥部で待つ魔王と戦うことになる。
勇者一行の冒険の目的は『魔王討伐』。王様に授けられたその使命が、私たちの始まりであり、全てだった。それが遂げられたならば、冒険は終わりだ。こうして勇者一行が共に居られるのもきっと明日で最後になるだろう。だから私たちは、この夜に焚き火を囲んで酒盛りに耽った。
魔物の踏み荒らす土地の真ん中で野宿することもある私たちが、わざわざ精霊の湖の畔までやってきたのは――明日に備えてちゃんとしたベッドで身体を休めるためでもあるが、正直これが目的だったと言って良い。
……今でこそ賢者と呼ばれる身となった私だが、昔は少しばかりやんちゃな気があった所為か、お酒は人より飲めるタチらしい。順々に潰れていく《女戦士》ちゃんや《盗賊》くんを介抱しては宿に運び、残った《勇者》クンと二人で後片付けをしてから私も布団に潜ったのだが、しばらく目を瞑っていたもののどうにも寝付けず、こうして一人で抜け出してきた次第である。
宿を抜け出したのは、《女戦士》ちゃんにバレてしまっていたようだが。それで彼女は、《勇者》クンに様子を見に行くよう頼んだのだ。
まったくあの子め……私の気を知っておきながら、余計なことを。
「………………」
ベンチに座った、私と《勇者》クン。お互いに次の言葉を探しているのであろう、しばしの沈黙が生まれた。
……まずいなあ。これは想定していなかった。いや、こういうシチュエーションなら今までにも沢山あったはずだ。今更そんな沈黙に気まずさを感じるような関係ではない。しかし今この時だけは、何か適当な言葉を繋げていないとまずいかもしれないと、私の頭の中の誰が告げていた。
精霊の宿る湖は、魔王討伐前夜だというのにも関わらず、とても綺麗だった――これまで必死に食いしばり、封じこめてきた感情の結び目を、解いてしまいそうになるほどに。芽生えてしまったその日からずっと、この気持ちだけは大事にしまっておこうと、そう決めていたはずなのに。
「……ねえ、《勇者》クン」
口を衝いた私の声を、私はどこか遠くから眺めるように、他人事のように聞いていた。理性では言うべきではないと分かっていても、気が付いた時には口から出ていた。何か適当な言葉、ではない。一番触れたくない、避けていた言葉だ。
「《勇者》クンにとって――《お姫様》って、どんな人なの?」
私たちの始まり。冒険の全て。王都の城で王様に命じられた『魔王討伐』。つまるところそれは、「世界を救え」ということ。それこそが私たち勇者一行の使命だ。魔王を打ち倒すことによって、魔王軍に制圧されてしまった世界を取り戻す。魔王さえ倒してしまえれば、魔王軍など統率の執れない烏合の衆となる。あとは警備の騎士たちだけでも、撃退は可能になるだろう。
ただ、勇者一行が担う『魔王討伐』は、魔王を打ち倒すだけが仕事じゃない。《お姫様》だ。
王様の大事な一人娘……王女殿下であらせられる《お姫様》は、この世界に魔王が現れてあちこちの村々が魔王軍の手で制圧され始めたすぐの頃に、魔王によって攫われてしまったのである。魔王曰く、彼女はこの世で最も美しい姫。自身の妃となるに相応しい人間は、他に居ないと。わざわざこの国で特に警備が厳重だったはずの王都にまでやって来て、王女殿下を誘拐していった。
当然ながら、王様は私たちに《お姫様》の奪還も命じられている。あるいは「世界を救え」という使命より、告げる言葉に心が込められていたように思う。それもそうだろう。一人娘を魔王に誘拐された親の気持ちというものは、察するに余りある。王様から勇者一行に下す命に私情を混ぜるなとは、誰も言うまい。
――そして、その“私情”は、王様にとってだけのものではなかった。
恐らくは《勇者》クンにとっても、それは最も果たしたい悲願だった。
「幼馴染なんだ。アイツは」
一国の姫が、幼馴染。王女殿下を「アイツ」呼び。……などということは、勿論、普通にあることではない。
これまでの旅を通して知ったことだが(主に本人の口以外から得た情報として)、この《勇者》クンは、王国随一の騎士と呼ばれる《騎士団長様》の息子であり、由緒正しい家門の生まれなのだそうだ。私や《女戦士》ちゃんや《盗賊》くんは、王様との謁見など、使命を授かった旅立ちのあの日が初めてだったのだが、《勇者》クンだけはどうやら違っていた。《お姫様》と幼馴染だったから、王様とも知己の間柄だったのだろう。
……これまで私は、《勇者》クンと《お姫様》の関係について、幼馴染だということ以上の話を聞いたことはなかった。聞きたく、なかった。けれどどういうことか、私はもう、後戻りできないところまで踏み込んでしまった。
すぐ隣にいる《勇者》クンの顔を、見ることができない。
「親父が騎士団長をやってるってのは、前に話したかな。それで俺、小さい頃から城の出入りを許してもらってたんだ。今にして思えば、それで父の背中を追って強い騎士を目指せるように、とかって意味があったんだろうけど」
想像する。偉大な父に連れられて、目に入る全てのものにワクワクしながら城を歩く幼い《勇者》クン。そして、普段は大人ばかりが出入りしているはずの城の中で、年の近い子どもの彼を見つけることになる、幼い《お姫様》。
「そこで、アイツに会って。城の中しか知らないアイツは、俺のことが珍しかったみたいでさ。気に入られたのか、毎回俺に絡んでくるようになって、いつの間にか仲良くなってた。アイツとは、そっからの付き合いなんだ」
小さい子どもの、よくある出会いだ。……場所と、血筋に目を瞑れば。
《勇者》クンは、少し躊躇うような間を置いた後、言葉を続けた。
「今からちょうど十年前……アイツの十歳の誕生日に、俺は気まぐれで、プレゼントに指輪を用意したんだ。十歳そこらの子どもがはめられる指輪なんて、ただのオモチャだけど」
ドクン、と鼓動が聞こえた気がした。指輪。それはきっと、そういう話だ。
「アイツ、指輪をあげようとしたら、泣いて笑って大騒ぎして。どういう感情かよく分からなかったけど、とにかくその時は結局、受け取ってもらえなかった。で、『十年後、二十歳の誕生日に、もう一度プレゼントしてほしい』なんて約束をさせられた」
この話の顛末は、想像に難くない。《お姫様》の二十歳の誕生日というのは、皮肉にも、魔王に攫われてしまった日に当たるのだ。魔王が乗り込んだのは、彼女のバーステーパーティーの最中だったと聞いている。
彼女にとって、それは最悪の誕生日となったであろう。そしてそのせいで、彼女は彼に、約束を守ってもらうこともできなくなった。
「いちいちそんな子どもの頃の約束を覚えてるって、馬鹿みたいに思うかもしれないけど……。俺は、その約束を果たしたい」
俺にとってアイツは、そういう相手なんだ。
照れくさそうに、《お姫様》への具体的な感情を一つも言葉にすることなく、《勇者》クンは想いを語った。けれど他のどんな言葉よりも、彼女への想いを理解することができた。
――なんだそれ。「くだらない」なんて、苦笑することもできやしない。
私がずっと避けていた、一番触れたくない言葉は、そんな可愛らしいエピソードという形となって私の心に突き刺さった。
◇
《勇者》クンが宿へと戻った後も、私は湖畔のデッキで、月の光を見下ろしていた。
覚悟は、していた。いつか結果が出てしまうということを。結果が分かり切っていたからこそ、避けることで先送りにしていた事実を。だからだろうか――この結果を受けて、私は湖に波紋を作ってしまうほど、感傷的にはなっていなかった。
陳腐な話だ。私の想いなど、どこにでもある些事だ。勇者と姫の馴れ初めに、我々の出る幕などありはしない。口に出すのもおこがましい。世に名高き『勇者様』に、肩を並べられるだけ幸せ者だと思うべきだ。
それなのに、聞いてしまった。もう無視することはできない。「恐らく」などではない、今ではもうはっきりと「彼が最も守りたいもの」が分かる。分かってしまった。
そしてそれを――私は、「一緒に守りたい」と、思ってしまっていた。
魔王城から、そう遠くない場所にある森。
この森の湖には、神代の力を持った精霊が今もなお宿っている。その力は健在で、森に魔物が入って来ず、平和が保たれているのはそのおかげだ。
「……私がウジウジしてたのも、見られてたの?」
誰にも届くことのない問いかけ。答えが返ってくるはずもない。しかし私は、答えを受け取った気持ちになっていた。
デッキのフェンスから身を乗り出し、湖面に映る私の顔を見る。
雲一つない空のように、澄み切った表情をしている。
「魔王討伐を目前にして、しょうもないことでウジウジ悩んでた私に、前を向くための救け船を出してくれたのかな」
不思議でしかたない。これまでずっと蓋をしていた感情が唐突に溢れ出てしまい、しかも見て見ぬふりをしていた結果を見せつけられてしまった。
なのに落ち込むどころか、心は凪いだまま。それでいて目を背けることもなく、私は今、前へと歩き出す力に変えようとすらしている。
都合の良い、できすぎた感情だ。
「おーい……《女賢者》」
その声は、《女戦士》ちゃんのものだった。宿の方から、半ば寝言のような上擦り方で呼びかけてきている。眠いのだろう、瞼がほぼ落ちかけていて、表情はひどい有様だった。
「何、その顔」
湖畔のデッキに来て、初めての笑いが零れる。《勇者》クンにはずっと微笑みを向けていたが、噴き出して笑うことはなかった。
それで緊張の糸が切れたのだろうか。あるいは《女戦士》ちゃんの眠気が移ったか。ふいに欠伸が出た。そろそろ寝る頃合いらしい。
「ごめんごめん、心配させて。今帰るよ」
そう言って、私は湖を離れ、宿へと向かう。森に来るまでずっと張り詰めていた反動もあるだろうが、この夜は結局、とてもよく眠ることができた。
◇
――夢を見たのを覚えている。戦いが終わって、王都へと戻った後の夢だ。
《勇者》クンが《お姫様》を無事に連れ帰り、王様は声を上げて泣き出す。玉座の間で、人目を憚らずに大泣きする親の姿に若干の呆れを見せる《お姫様》。
そんな彼女に、背中から声をかける彼。振り向くと、彼は片膝をついている。彼女はそれを騎士の忠誠を示すしぐさだと思った。しかし彼は頭を垂れることはなく、懐から小さな箱を取り出すのだ。
その様子を、私は心から、祝福して見守っている。
失くすことのない想いを、大事にしまいながら。
陳腐な話。どこにでもある些事。
タイトルをつけるとしたら、「月がきれいですね」。