まどろみは目覚めを拒んで
いきなり招かれ、人生の選択をさっさと終えた帝国の中枢から去ったその日、ツェトラは、エメリットの顔を見ることもなく泥のように眠った。
1人きりでも眠れるものなのだな、とぼんやり考えながら半身を起こし、夏の朝の陽光が差し込む窓辺を見やる。
「ツェトラさま、おはよーございますっ!」
いつもと全く変わらない元気な調子でドアを開け、力持ちで働き者のメイドが部屋に入って来た。
履いて立ち歩くとぱたぱた音のする小人族の魔法のスリッパを、いつ何時も履いている。
エメがどこにいてもツェトラさまがお分かりになるようにそうしているのだと、恥ずかしがりながら話してくれたことがあった。
「おはよぉ……」
あくびをしながらあいさつを返す。
ぼんやりしたまま手招きすると、なかば強引に寝床に引っ張り込んでしまった。
エメリットが少しもいやがらないのをいいことに、「まだ起きたくないの」とさえ言わないまま、再び身を横たえる。
昨日はどうしていたのかとふにゃふにゃ尋ねながら、よく動くために短めにカットした黒髪を撫でる。
働き者のメイドがこそばゆそうにしつつも、いつも通り、こなした家事について話してくれる。
母が屋敷にエメリットを招いて2年弱になる。
ツェトラはいつからか、同じことをしていない間の彼女がどうしているかを知りたくなって、家事の話を聞くのが習慣になっている。
口調も声もいつも通りだった。
けれど、エメリットが突然、常にはない一言を発した。
「でも、寂しかったです……独りきりで眠ったのは、初めてでしたから」
ツェトラはエメリットと話す時、あまり調子に乗らないよう心がけて来た。
少しでも油断すると(しなくてもだが)このメイドのごく自然な可愛らしさに、やさしさに、愛情に、夢中になってしまうからだ。
「ごめんね。昨日はわたし、自分のことしか考えられなくて」
「リルム様から伺いました」
「そうだったの」
「ツェトラさまに成り代わり、お母様に激励を。差し出がましい真似をして申し訳ありません」
「どうして謝るの? わたしに出来ないことをしてくれたのに。わたしの味方でいてくれるのに、エメ……」
謝られる理由も、叱る理由もない。
本当は敬語を使ったりうやうやしく接してくれる必要もない。
エメの希望どおりに主人っぽく振る舞っているけれど、ツェトラとしては対等だと考えている。
「お母さまは実の姉妹のように、わたし達を育ててくださったのよ」
なおも困惑する同じ歳のメイドにそう言って、手を伸ばして、抱き寄せた。
もと姫君の非力な抱擁など、『剛力』の"星"の力を使わなくても拒絶できる。
そうせずに身体を寄せて包み込んでくれるエメリットに、ツェトラはうかつにも、思い切り甘えたくなってしまう。
「あたし、ずっと考えてました。疲れて、傷ついて戻って来るあなたに何を言ったらいいか。どうしたらいいか。何ができるのか。いつもの仕事をしながら……リムルお母様が、物事をよく考えられるように、教えてくださったから」
ツェトラはエメリットが出した答えを求めようともせずに、ただ黙って彼女が慎重に選ぶ言葉を聞くばかりだ。
目覚めを拒んでぐずるかのような、子どもっぽいしぐさ。
そうしてもいいのだと、エメリットの手が伝えて来る。
しなやかな白い十指のどこにも、"星"の指輪をつけていない。
指で頬を何度も拭ってくれるから、きっと、とっくに泣いてしまっていたのだろう。
「こうして、ツェトラが休める時間を作るくらいしか。いっしょに泣くくらいしか……あたしには……」
くすんだ緑色の大きな瞳いっぱいに涙が溜まっているのが見えた。
主人らしく激励したり慰めたり、まして──わたしのことなど気にしなくてよいのだ、なんて恰好つけることは、少なくとも今のツェトラにはできるわけもない。
お姉様がたに"星"をお譲りしたのも。
言葉にも態度にも出さないまま、けれどちゃんと愛してくれていたお父様のお傍を離れたのも。
自分で決めたことだった。そのはずなのだ。
誇り高き第4皇女ツェトリア=ロートシュテルンならば、どんなに苦しくとも悲しくとも、泣いたりしなかっただろうに。
なのに。
何がくやしかったのか、何が悲しかったのか、どうして涙が溢れて来るのか。
何もわからない。
今だけは、何も──。
2021/8/30更新。




