森中忍者
迷いの森。
そう呼ばれている森は、何故だか知らないけどどの国にもあるらしい。そういった場所は往々にして人間が住む領域に近しい事もあって、意外に身近な存在だったりする。
ただ、本当の意味で必ず入った人間を惑わせる森といえば、世界に一つだけしかない。
カログラット大森林。
人間が住むどの国にも属していない無権領域に存在する、未だかつて帰った者のいないと云われる呪われた場所である。
「聞いた話によれば、かつてこの場所で死んだ魔女の呪いだとか」
「俺は千年前に滅んだ魔王軍の残党が潜んでるって聞いたぜ」
兵士が二人、身震いをした。これは、決して僕を脅かそうというわけではない。近付くだけでも恐ろしいのだ。
僕が追放などされなけば、こんなところに来る事もなかったのだ。二人の視線も、心なしか厳しいものに見える。
別に僕のせいじゃないのに……
「せめて、何か武器をもらえないのか?」
さすがに、魔族が蔓延る噂がある場所に丸腰で入るのは嫌だ。
「……これでも持ってけ」
そういって手渡されたのは、随分と使い古された細剣。いかにも「今手持ちの中で最も要らない物」といった感じで、邪険に扱われているのをありありと感じる。
ただ、こんな物でもないよりは遥かにマシだというのも事実だ。
「悪いな」
「…………」
兵士は嫌そうな顔をする。
僕の精一杯の強がりは、どうやら効果てきめんだった。
よっぽど腹が立ったらしく、僕を馬車から降したらすぐに立ち去ってしまった。
彼らと僕は知らない仲ではないのだが、随分と冷たい事だ。
「……さて、と。どうしたものかな」
こんな森に入りたくはないが、逃げ出すわけにもいかない。この近くに人間は住んでいないし、森の外は見渡す限り荒れた土地だ。生き物が生活できるような環境は、森の中をおいて他にない。
困った困ったと思いながらも、この不気味でおっかない森の中へ入らざるを得ないのだ。
カログラット大森林などと大仰な名前がついている割りには、中は大して変わっているようには見えなかった。昔父上と狩に行った森と同じように見える。これならば、少なくとも歩き回るくらいならわけないだろう。
「川……せめて、果物があれば……」
まず、探すべきは川。飲み水の確保は死活問題だ。
贅沢を言えば、それに加えて果物の群生地。狩よりも楽に採れて、水分の補給にもなるようなものが望ましい。
一応狩の経験はあるが、古びた短剣だけではウサギ一匹獲れる気がしない。
なにせ、僕はまだ職業に就いたばかりの未熟者。すぐに何かのスキルを使えるようになるだろうが、一つ二つのスキルではサバイバル生活などままならないだろう。
「まあ、さすがにその辺の小動物にやられたりはしないけど……」
『グルルゥ!!!』
「えぇ……?」
マジかよライオン。
さすがは無権領域とでも言うべきか、人間の領域ではまず見かけないようなサイズの魔物がひょっこりと姿を現した。
レオブラッド。
真っ黒な身体に、血管のような赤い筋の入った模様を持つライオンだ。
当たり前だが、僕の力で仕留められる魔物ではないし、僕の脚力で逃げられるほど鈍重でもない。加えて、ライオンの方は僕を瞬殺できるだけの力がある。
『ググルァ!!』
「わ、わあ!??!!」
コイツいきなり出てきたかと思ったら威嚇してきやがった! デカい声でくっちゃべってる癖にそっち見たら因縁つけてくるヤンキーかよ!?
僕は驚いて尻餅をつく。ただ、そのお陰でレオブラッドの振り払った爪を偶然にも避ける事ができた。僕の頭がつい今し方と同じ場所にあったのなら、次の瞬間には身体と全く違う場所へと飛ばされていた事だろう。
ただ、次はもう避けられない!!
『ガルァッ!!』
「——っ!!」
死ぬ。
確信した。これは避けられず、だからと言って耐えられない。
振り下ろされるその爪は、確実に僕の命を刈り取ってしまう。
——そう感じた瞬間。
【スキル:木の葉隠れの術】
レオブラッドの爪は、僕の身体を大きく外れて傍の地面を抉り取った。
僕は無傷。レオブラッドの方は、視線をキョロキョロと彷徨わせている。
「あっぶな……」
『……!!』
声に反応して、レオブラッドが僕の方を見た。ただ、その視線は僕よりも遥かに後ろのように向けられているようだった。
木の葉隠れの術。
木の葉に紛れてしまい、相手の視界に認識されなくなってしまうスキルだ。危機に瀕した土壇場で新たなスキルに覚醒する事はままあるが、それがこのスキルで良かった。諜報員であるニンジャは攻撃スキルを覚えないし、もしあったとしてもレオブラッドを仕留められるようなものとは思えない。これ以上になく、運が良かった。
「…………」
ほんの少しの身動きでも、物音をたてしまう。逃げ出せば、場所を知らせてしまう事になるだろう。
だからと言って、じっとしているわけにもいかない。今は不思議そうにしているものの、そのうち匂いで見つかってしまう。
だったら、やる事は一つしかない。
「…………」
できるだけ音を立てないように立ち上がる。
レオブラッドがわずかな音に反応して顔を近づけてくるが、まだ疑心暗鬼で匂いを嗅いでいる。
僕は、その喉元に力一杯短剣を突き刺した。
『ゥグルグ!?』
「るぁぁぁあああ!!!」
叫び、突き刺した短剣を捻って横方向に引く。傷口を引き裂き、中からドロッとした液体が流れ出した。
レオブラッドが苦しんで暴れだす。さすがに、それ以上短剣を持っている事はできなくなってしまった。ただ、短剣が引き抜かれた傷口は小さくない。
「ぅ……!」
暴れられた際に前脚がかすった。たったそれだけなのに、右脚が痺れて力が入らない。
倒れろ……!
起きてくるな……っ、死んでくれ!
のたうち回るレオブラッドを前にして、必死に祈る。
もしも立ち上がってきたら、もう僕に打てる手立てはない。逃げる事も隠れる事もままならず、ただ怒り狂った魔物の夕食になるのだろう。
だから、倒れろ! そのまま動きを止めて、二度と起き上がるな!
荒くなる息がどうにも苦しく、心臓の中に石が詰められているかのようだ。
どんなに信心深い人間でも、ここまで強く祈る事はそうはないだろう。身体中から汗が吹き出しそうだ。
しかし……
『グラゥ……ルゥ……!!』
ゆっくりと、静かに、レオブラッドは起き上がった。
人間の思いなんて、所詮はその程度なのだ。
この魔物の名前は、ブラッドレオではない。
あくまで、レオブラッド。その意味は、獅子を模る血液。様々な魔物の血液が、強い魔力の影響で生き物の形を模したスライムの一種である。
表皮を傷つけた事によって崩れた身体は流れて落ちるが、それが不充分であれば活動に支障はない。
目の前の魔物は、すでに傷を治しているようだった。ダクダクと流れた身体を構成する血液も、もうすでに止まってしまっているらしい。
「だめ……か……」
とうとう、僕は座り込む。努力はしたが、及ばなかった。
もうほんのわずかすら動けそうもない。疲弊よりも、意志が働かなかった。生きようと、生きれると、感じられなかったのだ。
まだ、やりたい事くらいあったというのに。
『グァルルァ!!』
レオブラッドは、その巨体を揺らして僕に近付く。ほんの数秒ののちに、僕の短い生涯は終わりを迎える。
酷い人生だと、自分でも思う。貴族に生まれはしたものの、僕の人生はそんなに幸せじゃあなかった。
幼馴染みには虐められていたし、父上からの期待は正直重かった。その上、与えられたのは戦闘力皆無の諜報職。
「死にたくないなぁ……」
そんな事を呟いた。漠然と、まるで他人事のように、無意識に。
こんなにつまらなく人生を終えるなんて、酷く辛い事に思えてならなかった。
「そうか、じゃあ助けてやろう」
「え……?」
刹那、目の前の脅威は飛び散っていた。
生臭さをそこに残して、まさしく跡形もなく消えてしまった。
代わりに現れたのは、一見して1人の少女。
しかし、その少女が只者でない事は明らかだった。なにせ、僕がほとんど何もできなかった魔物を一瞬で消し去ったのは彼女なのだから。
そしてもう一つ——
「何をじろじろ見ておる。そんなにエルフが珍しいかえ?」
彼女の耳は、長く尖っていたのだ。