08 鬱陶しい公爵令嬢、その名は
それは、その場にいた誰もが恐怖を覚える現象であった。
「っぐ……全員この場を離れろ!!」
大きな揺れと共に、目の前の植物が瞬く間に成長を始める。
これが、黒エルフの精霊の力……!
真っ黒な木はずっしりと根を張り、枝は壁をみしみしと突き破る。酒場はあっという間に植物の根に覆われ、一本の大木となる。成長が落ち着いたと思えば、木が変色して、この辺りでもよく見かける甘い実の成る果樹となっていた。
酒場の中に人はいない。不幸中の幸いか、人的被害は無かったようだ。
植物の浸食が終わった途端、酒場の店主が地面に膝をついた。その大木を眺めながら途方に暮れている。あの黒エルフを追い詰めた俺の判断は、間違っていたのだろうか。
「……店主、お前にはエルフ発見による国からの報奨金が出るだろう。すまない」
店主はこちらを見ようともせず、俺の言葉が聞こえているのかも分からない。ただ、じっと果樹を見つめていた。
「グロッソさん、これからどうしましょう?」
「……これだけの騒ぎだ。市長の耳にも入るだろうし、国にも情報が飛ぶだろう。急ぎ宿に戻り、奴の人相と特徴を書いた手配書を準備しろ」
「黒エルフは追わないので?」
「お前は、これ以上被害を増やす気か?」
「……失礼しました」
だが、そうなると問題があった。
「隊長には、どう報告するんです?」
「……そうだな。ジョバン、お前はどう思う?」
ジョバンも店主と同じように果樹を眺め、固まったままであった。
「おいジョバン、仕事だ。……ジョバン!!」
大声で名前を呼ぶと、我に返ったかのようにこちらを見た。
「……グロッソさん。俺、惚れてしまいました」
「分かっている、だが諦めろ。あれは我々の天敵だ」
こいつは受け入れてくれるだろうか。
ジョバンの表情からは、感情が抜け落ちていた。
「ジョバン、君も含めて全員で隊長に報告しろ。手配書の準備も忘れるなよ。俺は先に市長の元へと向かい、事態の報告と後始末をする。隊長が何をしようとも全員で宿に足止めしろ。いいな?」
「「了解」」
隊員たちは早速崖を登って行った。
ボーレン隊長には、黙ったままで来たのだ。
……悪いな皆、これは辛い仕事になるだろう。
「さて」
市長の元へ行く前に、参考人を連れて行く。
目的の女性の元へ近づき、声をかけた。
「そこの茶髪の女、少し話がある。俺に時間をくれ」
「えぇ! この状況で逢引きですか!? いやぁ、照れますねぇ……」
少し赤い顔をして、上目遣いで俺を見た。
こいつ、面倒だな……。
そう、俺が声をかけたのは、先程酒場にいたお喋りで下品な女だ。
「いや、そうじゃない。お前は今から、参考人として市長の元へと向かうのだ。ドロアの住人なのだろう?」
「違いますよ?」
「……おい。まさか、さっきのエルフの話は嘘じゃないだろうな?」
「いえいえ、事実ですとも! そう……あれは、私が初めてドロアを訪れた日のお昼頃でした。長旅のせいか、あまりに空腹だった私は、ドロアの名物とやらを食しに人気の酒場へと……」
「いや、もういい……おい、お前……」
あぁ、この感じ。
隊長を相手にしているようだ。
胃がキリキリしてきた……。
「おい! 俺はグロッソ・リケンスと言う。お前の名前は?」
「そこで私は……ってえぇ? 話、ちゃんと聞いてました?」
「名前は?」
「リゼンベルグ国グランデ公爵が3女、お喋り大好きメイシィ・グランデです!王都リゼンベルグからはるばる徒歩で旅に出て早3年、こうしてプロヴァンスの王都に向かい順調に旅をしている中、騒動に巻き込まれつつも華麗な……」
「よしメイシィ、行くぞ」
俺はメイシィの手を取り、強引に市長の元へと向かう。こんな夜更け、しかも面会予約は取っていないが緊急事態だ。やむを得ない。
「まぁ! やっぱり逢引きで……ちょ、ちょっとそんな激しく!」
「ちょっと黙ってろ! 行くぞ!」
ろくでもない女だ。本当に公爵の娘か?
手が付けられなくて、放り出されたクチだな。
騒がしいままで庁舎にたどり着き、警備員に事情を説明して中に入る。当然ながら、庁舎は静まり返っていた。
リルーセ市長は家族共々、普段からこの庁舎で寝泊まりしている。目覚めて朝食を取り、そして扉を開けるとすぐに市長室らしい。実に仕事熱心で、羨ましい限りだ。その市長室へと辿り着き、騒がしい女と共に中へと入る。
「入れ」
「失礼いたします」
市長は普段着であった。
そして……彼の膝の上には、7歳ほどの市長の娘と思しき人物が乗っている。市長に似た、賢そうな顔だ。
「一緒に聞きたいと言って聞かんのだ……。悪いが、気にせずに報告してくれ」
「では、報告します。書記官は良いので?」
「あぁ、そういえば必要だな。待ってろ、呼んで来よう」
市長は眠っていたのだろうか、少しのろのろと動き出し、娘を置いて部屋を出た。
残されたのは、俺と下品な女と娘。
市長室が、何とも言えない空気になる。
「ねぇお嬢さん、お名前は何て言うのですか?」
「メイシィ、大人しくしてろ」
「……ロニエです」
「ロニエちゃん! 可愛いですねぇー! チュッチュしてもいいですか?」
「……いや……いや!」
「メイシィ、座ってろ」
メイシィの顔がロニエに近づき、同時にロニエが引いた。
止めるべきだろうが、体力を使いたくない。
この子も、さっさと寝てくれないかな。
「待たせたな」
「お父様ぁ!!」
「ど、どうしたロニエ?」
怯えたロニエを、市長は抱きかかえた。
メイシィは何事も無かったかのように、無表情で背筋を伸ばして座っていた。何なんだこいつは……。
「……では、報告しても宜しいでしょうか?」
「あぁ、頼む」
「市長のご存じの通り、我々の隊はこのリルーセにおける経済格差の実態を調べておりました。これは、プロヴァンス財務官からの依頼です。正確な数字はご報告頂いておりましたので、実態調査が主な業務です。その一環として酒場へと出向いた訳です」
と言っておかないと、この話が隊長の耳に入る時に大変な事になるためだ。
「でもグロッソさん、飲んでましたよね?」
「……そうして地元の方と親交を深める中で、事件は起きました。酒場の隅に、怪しげな風貌の女が寝ていたのです。それで、部下に向かわせたところ……」
「その人、愛の告白をしましたね」
「お前は黙ってろ! ……失礼、紹介が遅れましたが、こちらの女性は参考人のメイシィ・グランデです。なんでも、リゼンベルグの公爵令嬢との事で」
市長も、この不要な合の手が気になっていたようである。
その眼はメイシィを信用していない目だった。
「……カサシム・フェーベ・リルーセだ。ここの市長を務めている」
「メイシィ・グランデです! 私がここまで辿り着きましたのは……」
「メイシィ、後にしろ! ゴホン……では続けます」
察してくれよ市長、この女に時間を取らせたくは無いのだ。
というか書記官、お前どこまで書いている?
メイシィの余計な言葉は記録しなくていいんだぞ。
「その怪しげな風貌の女は……見たことも無いほどの美貌を持った少女でした。大きな碧眼に白い肌、桃色の唇、鈴の音のような声。それに、――長い耳と、黒い髪」
そう発言した瞬間、市長は目を閉じて天井を仰いだ。彼も耳にはしていたはずだ。だが、事実を受け入れたくなかったのであろう。
「私は他の部下を引き連れ、彼女の元へと向かいました。そして、危害を加えない代わりについてきてくれと話しかけました。噂で聞いていた通り、彼女は会話ができるようで、私の言葉に返事しました」
会話の一部始終を市長へと報告する。
同時に、俺の失態も伝わっただろう。
だが、市長は同情的であった。
「……そのような場で、冷静にいられる方がおかしい。これだけの情報を仕入れた上、黒エルフ相手に死者を出さなかっただけでも十分な功績だ。黒エルフの行動が不気味なのは気掛かりだな」
「そう言っていただけると私も救われます。酒場の店主に対して、何かしらの援助を頂けないでしょうか?」
「良かろう。だが、まだ問題が解決しておらん」
「ありがとうございます。仰る通りです。……メイシィ、あちらで書記官と共にドロアでの出来事を報告してくれるか? 手短に、できるだけ手短にだ」
「分かりました!」
話したくてうずうずしていたメイシィは、嬉しそうに移動した。書記官は、かなり嫌そうな表情だ。この短時間で察したのか。中々に優秀そうだ。ロニエもとてとてと歩いて書記官の方へと向かった。メイシィの話が気になるようだ。
俺と市長はそのまま向かい合い、話を続ける。
「今後、我々は黒エルフの手配書を作り直します。部下達に至急やらせておりますので、明日には見本をお持ちできるでしょう」
「助かる。我々は警備から事情聴取しよう。どうやって我が町に潜り込んだかを聞かねばならん。……全く、こうも問題が重なるとは」
……他にも、何か問題があるのか。気になるが、今はいい。
「依然として、黒エルフの行方は分かりません。町の人間から目撃情報を聞いて辿るしか方法がありませんので、警備員にはそれも指示して頂けますか?」
「良かろう。今回の一連の騒動について、国への報告は君を通してでよいか?」
「はい。3日間は滞在しておりますので」
「あと、君の所の隊長は何なんだ? 今後は君とのやりとりがいいのだが」
「……申し訳ありません、承知しました」
ひとまず良し。
これで業務の道筋は立てた。
これが王子様の密命であるという事実は、このまま伏せておく。部下達には手配書配布後、引き続き聞き取り調査を任せる。隊長は、警備員を借りて町の観光でもさせておけばいい。
そこまで考えて、一旦、メイシィの方に耳を傾ける。
「……そうして私は隊商に紛れ込み、ようやくドロアに侵入できたわけです!ですが、気付いたのです。私はその時点で腹ペコでした……」
やっとドロアに到着かよ…。
書記官は苦笑いだ。それとは対照的に、ロニエの表情はらんらんと輝いていた。
「……あの様子だと、娘さんは暫く寝そうに無いですね」
「あとどれぐらいかかるのだ?」
「分かりません。あれは置いていきますので、適当に処分して下さい」
「いらん」
俺だっていらない。メイシィとはここで縁を切っておきたい。
その後、市長と詳細の打ち合わせを行った。
最初は市長を疑っていたが、実に生真面目な男であった。
一通り話し合いを終えて、互いの苦労話を話し合う。
そんな中、書記官とロニエが寝た後も、メイシィは一人で喋り続けていた。