7 導入
「咲希ちゃん、聞いてよ!」
いよいよ作戦を実行するときが来た。
いつもの帰り道。
学校を出たばかりで、今は線路を越える前の道にいる。
この帰り道で、私は友佳ちゃんと喧嘩したと、愚痴をもらすことにした。永く話ができる場所は帰り道しかなかった。
他に私が咲希ちゃんと話す機会があるのは、学校での授業の合間くらいか。けれどもそれでは時間が短い。話すべきことを全て話し終えられるとは思わなかった。中途半端になったら、また話の続きをしなければならなくなる。けれども、愚痴の続きを話すなんてあまりにも不自然ではないか。辷るようにことを進めたかった。どうせ一緒に還るのだから、好き好んでそんな危険を冒す必要もないし。
それと、咲希ちゃんと二人っきりのときに話したかった。教室などの他人がいる場所ではなく、私と咲希ちゃんしかいない閉鎖的で格別な世界で、作戦を進行させたかった。
壇上に上がれるのは、この作戦に認められた人間だけなのだ。それ以外は権利を得ない。私と、咲希ちゃんと、友佳ちゃん以外は……。
今日はこの前の咲希ちゃんを手に入れようと思い立ったときと違い、早い時間に学校を出たので、田んぼ道で夕日を見ることはないだろう。また見たいかと訊かれたら微妙だ。だって人間を感動させるほどの輝きは、失われてしまったのだから。魅力がなくなり、無意味なものとなってしまった。
ペンについて文句を言われたのは、今日の昼休み、という設定にしておいた。事件は間近に起こった方が緊迫感があっていいし、溜めこんだ苛立ちを咲希ちゃんに話して、すぐ発散させたかったというリアリティも演出できるだろう。これはなさなければならない事柄ではなく、場を盛り上げるための工夫だ。うまく効果を発揮してくれなくても構わない。
「どうしたの? すごい剣幕で」
咲希ちゃんは、私の話をきちんと聞こうと、こちらを向いた。そして私をなだめるように微笑んだ。
微笑みこそ、彼女の武器だ!
私はこの微笑みに幾度となく撃沈されている。この絶対的な表情に、私は屈するしかない。いままでなぜこの武器を意識しなかったのだろうか。
「い、いや……」
微笑みの発見が衝撃的すぎて、思わず言葉をつまらせた。失敗したと思った。始まりから不自然になってしまった。
すぐさま持ち直そうとした。
「実はね、友佳ちゃんと喧嘩したの」
「仁和さんと? 何があったの?」
「友佳ちゃんに借りたペンを返したか、返していないかということで揉めちゃったの。私はもちろん返したつもりだった。けれど友佳ちゃんは、返されていないと言い張ってきかないの。きちんと返したのに……。悪いのは私じゃないんだよ。なのに友佳ちゃんは怒るばかりで……」
「へえ……。それはいけないね。二人とも仲いいのに、喧嘩しちゃいけないよ」
やはり咲希ちゃんからも、私と友佳ちゃんは仲がいいように見えていたのだ。これで作戦を進めやすくなった。仲のいい友達と喧嘩したという事実は、より咲希ちゃんを関係の修繕へと向かわせるだろう。
「喧嘩なんかしたくなかった。けれども私の意思関係なしに、友佳ちゃんの方からふっかけてきたの。だからどうしようもなかった。友佳ちゃんの怒りを静めるよう、話をコントロールするのも難しかった」
「でもやっぱり喧嘩はいけないと思うな。どうにかして仲直りできないの?」
咲希ちゃんは私たち二人の関係の心配をしてくれた。
咲希ちゃんの性格なら、私たちの関係が悪化したら、それを元に戻そうとしてくれるだろとふんでいた私の目に狂いはなかった。
この目測が外れていたら、計画そのものが破綻してしまう。そうならなくて本当に良かった。また一から新しい計画を考えるなんて、骨が折れる。もちろんそんなつまらない困難で、諦めたりはしないが、多少面倒くさいとは感じるだろう。
「友佳ちゃんから謝ってくれるなら、私は許してもいいよ」
強気に答えた。この後に訪れるペンの発見を重大な出来事に仕立て上げるためだ。一方的に友佳ちゃんを悪者扱いしておけば、こちらが悪かったと分かったときの責任は、大きなものになる。
「そんなこと言っちゃダメだよ。優雨が悪くないというのは分かっているけど、それを理由に傲慢になっちゃいけないよ」
咲希ちゃんは私の味方をすると同時に、友佳ちゃんのことをも思いやっていた。なんてできた人なのだろう。やっぱり彼女のことが好きだ。私にはもったいないくらい完成された人だけど、それでも私が手に入れる。
「傲慢になっているつもりはないよ。でも私が謝る義理もない」
「ここは折れた方が勝ちだよ。優雨の言い分も分かるけれど、ぐっと我慢しよう。私は早く二人が仲直りしれくれることを望むなっ」
かわいい! かわいい!
「望むなっ」の「なっ」って言ったところでちょっと首をかしげる仕草がたまらなくかわいい。注意して見なければ分からないくらいの小さな仕草だけれど、その控えめな姿が愛しさを倍増させる。
私は身体の内部で突発的に発生したエネルギーに突き動かされ、足元に落ちている石ころを思いっきり蹴り飛ばしたくなった。けれどもそんなことをしたら、咲希ちゃんにどうしたのかと訊かれてしまう。それ対する適切な理由を準備していなかった。なので、石ころはそのままだ。
私はもう崩壊してしまいそうだ。
そして、仲直りして欲しい、なんて言われると、私は困ってしまうのだ。咲希ちゃんの願いを叶えてあげたいけれど、それをしたら、私の利益がなくなってしまう。なので願いは叶えてあげられない。
「いやだよ、私から折れるなんて。格好悪いじゃん」
「むーっ。けれど、相手が仁和さんじゃなかったら、簡単に折れるでしょう?」
「それは……」
そうかもしれない。友佳ちゃんなら、何をしても許してくれそうな気がする。なので、積極的に解決へ運ぼうとしなくても、最終的にはどうにかなると信じてしまうのかもしれない。これは甘えなのだろうか。いいや、これこそが信頼関係だ。
「そうかも……」
「なら仁和さんを仁和さんだと思わないことだよ。そうすれば事はすぐに解決する」
友佳ちゃんを友佳ちゃんだと思わない……か。こんな意味不明な提案を、咲希ちゃんは頻繁にする。なかなか無茶なことを言っているように聞こえるが、何度も滅茶苦茶な案を聞いていると、それが実行可能なように思えてくる。
そしてその案を実行すると、必ず失敗する。
聞いた瞬間は名案としか受け取れないのだ。実行して気づく、これは愚策だ!
なので今回もうんうんと頷いてしまった。
「そうだね、それはいい考えかも」
「でしょう! なら明日謝りに言ってきな?」
「うん。…………うん?」
はっ! 危うく納得させられるところだった。
いけない。いけない。
本来の目的を思い出さなければ、咲希ちゃんを手に入れることが目的で、友佳ちゃんとの喧嘩はその作戦の一部なのだと。喧嘩なんか嘘であるのに素直に謝りに行ってどうする。アホか!
「やっぱり、無理! 私は絶対譲らない!」
軌道修正を試みようとすぐさま咲希ちゃんの案を否定した。
「えーー」
咲希ちゃんは残念そうに唇を尖らせた。
「もう少しだったのに……」
「正直、話に流されるところだったけれど、私の意志は絶対に曲げられない、自分から謝らない、という意志は。こちらに非はないのだから友佳ちゃんから謝るべきだ。それがなされない限り、友好はありえない」
「うーん。これは難儀だねえ」
「そうかな。当然だと思うよ。友佳ちゃんと仲いいからこそ、きちんとけじめをつけなければいけない。馴れ合いは嫌いだよ」
「いやー、そんなこと言っているから解決しないんだよ。難儀だねえ」
咲希ちゃんはつまらない言葉を繰り返した。
「難儀じゃないよ!」
追及がしつこく感じられ、語気が少し強まってしまった。
咲希ちゃんとの距離を縮めるための努力をしているのに、喧嘩してどうする。
すぐに自分の行いを悔いた。なんてことをしてしまったのだ。こんなことで怒ってしまうなんて……、私は少しだけ我慢するべきだったんだ。こんなどうでもいい内容で咲希ちゃんに嫌われたくない。
取るに足らない事柄で嫌われるなんてみっともなく、私はそんなもの望まなかった。しかし私は、嫌われること自体を否定したいわけではない。
英雄的な決別も存在していた。
一つ例を挙げると、今行われている作戦が失敗したときにこそ、理想の決別がぴったりと当てはまる。
私はこの作戦の中で、咲希ちゃんに想いを伝えるつもりだった。私の想いが受け入れられなかったときこそ、決別の場なのだ。
咲希ちゃんとの恋が終わった瞬間に彼女を殺してしまいたかった。咲希ちゃんの内部にナイフを侵入させる。咲希ちゃんの身体を巡る血液は、ナイフを十分に浸してくれるだろう。そして私は、咲希ちゃんの分身を味わうために凶器を自身へ突き立てるのだ、咲希ちゃんと同じ箇所に。混じり合う血液は二人の愛の証であった。
これは究極的な理想であり、たとえ先述のような状況になっても、咲希ちゃんを殺すつもりはなかった。こんな行き過ぎた発想を実行する気は更々なかった。
でも、理想的であった。この大きな仕事をなせば、私は理想の内に終われるのだ。幸福の最中に死ねる。なんと魅惑的で、私を強く惹きつけるのだろう。
不可能であるから、惹きつけられるのかもしれない。咲希ちゃんの生を奪い取った瞬間、この幸福は跡形もなく消え去ってしまう。
実行しなければ分からないが、実行は永久にされないのだ。
咲希ちゃんは私の苛立ちを物ともせず、笑顔を崩さなかった。
「ごめんね、大きな声出して。びっくりしたでしょう」
咲希ちゃんの手を握り、誠意を込めて謝った。これをしないと、咲希ちゃんが私から離れていってしまうような、そんな気がした。謝らずにはいられなかった。
「ごめんね……。ごめんね……」
心の指揮者の指示に従い、何度もごめんねを言った。
「そんな丁寧にしなくても大丈夫だよ! それより今の感じで謝ればいいんだよ。自然に謝れてたじゃん。その勢いを仁和さんの前でも発揮できればいいんだ」
また怒りを感じた。どうしてここで友佳ちゃんの話が出てくるのだ! 今は私の話をしているはずではないか!
そして更に、咲希ちゃんの指摘は間違っていた。この謝罪が自然なものなわけない。恐怖に突き動かされて、謝ったのだ。
今度は我慢できずに、石ころを蹴り飛ばしてしまった。
靴を離れた石ころは、道路の上を転がっていき、知らない誰かさんの住む家の塀に当たった。そして運動をやめた。
「あっ」
咲希ちゃんは、蹴り飛ばされた石の行方を見守った後、小さな悲鳴を上げた。
顔を上げた咲希ちゃんは、私のことをはっきりと見つめた。
「ダメだよ、そんな乱暴なことしちゃ。いくらむしゃくしゃしているからって、そんなことしちゃダメだよ。蹴られた石がどこに行くか分からないんだから。物を壊したり、人に当たったら大変だよ」
咲希ちゃんの瞳には本物の正義が宿っていた。やはり咲希ちゃんは透明なのだ。この指摘も私のことを考えて言っているに違いない。確かに蹴り飛ばした石が誰かに危害を加えたら、私の責任は重いだろう。
「うん……」
その正義に屈し、私は弱々しく答えた。
「もうしない」
「よしっ! いい子、いい子」
咲希ちゃんは私の頭を撫でた。
咲希ちゃんの身長は私よりちょっと低く、撫でるのに苦労するかと思ったのだが、案外ちょっとの差など、なんでもなかったみたいだ。
咲希ちゃんの手が髪の上を往復するたびに、少し背伸びをし、彼女の手の感触を心ゆくまで味わった。
撫でながら咲希ちゃんは言った。
「仁和さんに謝れる?」
「……無理!」
また雰囲気に流されるところだった。一度流されかけた私は、また流されないようにしようと心掛けていたので、今度は分岐点に対して機敏に反応できた。咲希ちゃんは私を転がすのが上手だった。
意志をはっきり示すために、私は咲希ちゃんに向かって宣言をした。
「友佳ちゃんになんか絶対謝らない! これはもう決定事項で何があっても揺るがないんだから!」
宣言を受けた咲希ちゃんは、曖昧な表情で頬をかいていた。