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ハンカチ  作者: 伊藤
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3 帰り道

 普通に過ごす? そんなの無理だ!

 昨日の授業中は、意識して咲希ちゃんの方を見ないようにしていた。だが、普通に過ごすとなると、その抵抗は禁止されるのだ。

 すると私の目は、自然に彼女へ吸い寄せられ、固定される(日時計の影のようにそれは当然の摂理である)。凍りついたように動かない。

 彼女の後ろの席に座れたことを幸福に思った。こんなにも彼女を眺めていられるのだから。ただ眺めているだけで幸せだった。チョークが黒板を叩くカッカッという音も耳に入らず、一心に彼女を見つめていた。

 彼女を見つめていると、その全てが神聖なものに思えた。物事は彼女と彼女以外にはっきりと分かれ、彼女だけが特別に見えた。

 彼女を見つめてばかりではいけない。授業にも集中しなくては。黒板に向き直り、ノートをとり始めた。


 全ての授業が終わり、放課後となった。

 一日が終わる頃になれば、恋の熱も収まっていき、平然と彼女に向き合えるようになっていた。一時はどうなることかと思ったが、ひとまず落ち着いてくれたので良かった。ずっと熱を帯びたままなら、一生彼女と会話できなくなっていただろう。

 鞄へ教科書などをつめ、帰りの準備をしていると、咲希ちゃんが私の机の近くにやってきた。

「今日は一緒に帰れる?」

 昨日は断ってしまったから、こんなことを訊いてくるのだろう。いつもなら荷物をつめ終わるまで、何も言わずに待っていてくれる。

「うん。大丈夫だよ」

 手を動かしながら答えた。

「そう。よかった。昨日、一人で帰ったら退屈だったんだ。家までの道のりが長く感じたよ。それと赤信号の待ち時間も」

 咲希ちゃんは純粋に喜んでいたのだろう。顔がにっと緩んでいた。

「昨日はごめんね、一緒に帰れなくて」

「謝らなくていいよ。優雨にも色々と事情はあるんだから、無理強いはしたくないよ」

「そう言ってもらえるとありがたいな」

「それで、なんで昨日は一緒に帰れなかったの?」

 彼女は好奇心から訊いたのだろう。彼女の性格上、それ以外の理由などないはずだ。

 でも……! でも……! なんて答えづらいことを訊くのだろう!

 本当の理由なんか言えるはずもない。

 だってその理由は、私の内に秘めるべきものだから。彼女に伝えるとしても、今はまだ時期が早い。

「あっ、言いづらかったら言わなくてもいいよ」

 黙っていた私を見て、彼女は気をきかせてくれた。

「ごめんね」

 その気遣いに甘えることにしたけれど、隠し事をしているのを心苦しく思ったので、ごめんねを口にした。

「だから謝ることないって……。もう」

 やや呆れ気味に咲希ちゃんは言った。

「優雨の都合なのだから、それに関して私はとやかく言わないよ」

 それは無関心ということだろうか。

 私は咲希ちゃんに好意を寄せている。けれど、咲希ちゃんは私のことなど気にも留めていないなんて。それではあまりにも滑稽ではないか。

 ……だめだ。考えが悪い方向にいってしまう。

 実際はそのような構図など、ありもしないのだろう。ただの私の妄想。

 こんなつまらない邪推をするのも私の悪い癖だ。

 悪い考えは、パッと思い浮かぶ。すぐにその考えを否定するも、頭のどこかにその考えはわだかまり続けるのだ。引っかかって引っかかって、なかなか取れない。

「いやー、このまま一緒に帰れなくなったら、どうしようかと思ったよ。昨日一日だけでも退屈で退屈で我慢できなかったのに、卒業まで一人で帰るとなったら、たまったものじゃないね」

 話題を転換するように咲希ちゃんは言った。

「そんなこと絶対にないよ!」

 咲希ちゃんの言ったことが、私たちの仲の終わりを示しているように感じられたので、思わず口調が強くなってしまった。彼女との関係が断ち切れるなんて、絶対にあってはならない。

「およ? そう?」

「うん……。咲希ちゃんが嫌じゃなかったら」

「全然嫌じゃないよ。なら、卒業するまでずっと一緒に帰ろう!」

 なんの宣言をしているのかと、少々おかしく思ったが、彼女に関係を約束してもらえて、心底安心した。

「咲希ちゃんがそう言うのなら、ずっと一緒に帰れるね」

「え? なんで?」

「なんかそんな気がする」

「でもたとえば、私が病気で半年くらい入院したりするかもよ。そうしたら一緒に帰れなくなっちゃう」

「咲希ちゃんは病気になんかならないよ」

「……なんか馬鹿にされてる気がする」

「気のせいだよ」

 話しこんでいたら、教室に残っているのは、私たち二人だけになっていた。先程までは、帰り支度をしている人がちらほらと見受けられたのに、一体いつの間にいなくなっていたのだろう。

「そろそろ帰ろっか」

 咲希ちゃんが、私と同じように辺りを見回してから言った。

「そうだね。残っていても仕方ないし」

 鞄を持ち、教室を出ようとする。

 咲希ちゃんのあとについて、扉の前まで来たとき、ふと壁にかけてある鍵が目に入った。教室の鍵だ。

「鍵って閉めなくてもいいのかな?」

 気になったので咲希ちゃんに訊いてみた。

「いいんじゃない。あとで誰かが閉めてくれるでしょう」

 誰かとは誰だと思ったが、たしかに誰かが閉めてくれそうだ。誰も閉めなくても特に大きな問題にはならないだろう。

 なので閉めないでおくことにした。

 職員室に鍵を返しに行くのもめんどくさいし。

 正門をくぐり、帰路につく。

 私の家は、学校から二キロメートル程のところにある。歩きで通っても、自転車で通っても、どちらでもいい距離だったので、歩きで通うことにしていた。二キロメートルという数字を聞くと、長いなあと感じるのだが、実際歩いてみると案外短かった。特に友達と一緒にいると。

 家に帰るには、踏切を渡らなければいけない。踏切の近くには駅もあった。

 生徒の大半は電車を使って登下校している。電車は一時間に一本ないし二本しかなく、機を逃した場合、大変退屈な時間を過ごさなくてはならなくなる。こうなるともう不幸としかいいようがない。

 朝の駅は登校してくる生徒でごった返す。たくさんの人々が、一斉に電車から降りると、ホームはお祭り騒ぎとなる。下校時は部活動などで帰る時間が分散しているからか、混雑しなかった。

 線路まで至る道は、至って平坦だ。なだらかで変化に乏しく、同じような風景が続く。ボロい民家と草木の組み合わせは、もう見飽きてしまった。

 時々新しいデザインの家も建っており、周りにある古いデザインの家との対比は、奇妙な感じを起こさせる。

 線路を越えてもしばらくは、先程と同じようなつまらない風景が続くのだが、駅前に来ると新しく建てられた建物が増える。生徒たちが利用する駅舎も、三年前に建て替えられたものだ。

 電車に乗るわけではないので、駅舎に入っていく生徒たちを横目に、ロータリーから延びた道を進んでいく。駅までの道では、他の多数の生徒たちに入り混じって歩いていたのだが、駅からの道には生徒の姿はなく、私と咲希ちゃんの独擅場となっていた。本当に制服を着た人々は、誰ひとりとしていない。先程までの軍団が嘘のよう。

 ひたひたと北に向かい歩いて行く。

 途中、自動車の通りの多い、大きな道路を横断する。横断歩道を渡っているときに、横を向いてみたが、道路の果ては見えなかった。長く長い道路で、標識や信号機が無数に立っていた。

 その大きな道路を過ぎれば、またもや古い民家が多くなってくる。

 そしてある箇所を越えると、それらの民家は一切なくなり、田んぼ道となる。

 まっすぐな一本道の周囲には、背の高いものは存在せず、四方の山々をはっきりと見ることができた。

 田植えの時期はもう少し先なので、田んぼに水は張られていなかった。

「んんっ、やっと広いとこに出たね。毎度ながらあの狭い道は窮屈で嫌だよ。カラスがよく飛んでるし……」

 隣を歩く咲希ちゃんが、伸びをしながら言った。おそらく、踏切を渡る前までの道のことを、言っているのだろう。

 たしかにあの道は狭い。乗用車がギリギリ通れるくらいの幅しかなく、歩いている最中に乗用車がやってきた場合は、端に寄り、立ち止まるようにしている。ぶつかったら堪らないからだ。

 それと、咲希ちゃんはカラスが嫌いみたいだが、私は好きだ。あの黒い塊が空を飛ぶ姿は、私を強く惹きつけ、頼もしささえも感じさせる。

「今日はよく見かけたね」

「本当だよ。カーブミラーの上に止まっているの二回も見かけたし。なんか集会でもあるのかね」

「集会?」

「カラスの集会だよ。集まって、どこどこにエサがたくさんあるとか、話し合っているんじゃない?」

「あはは、そうかもね」

「議長は一番最初のカーブミラーに止まっていた大きなヤツかな。なにせ大きかったもん。あいつ以外に適役はいないね」

「それは飛んでいるのと違って、間近で見たから大きく感じたんじゃないかな。あのくらいの大きさが普通なのかも」

「うーん。そうかな。そうだとしても、あのカラスは他のよりも大きかったと思うよ」

「なんで?」

「なんとなく!」

「そっか。なんとなくか」

 なんとなくと言われてしまったら、なんとなくを認める他に道はない。

 一旦は認めたのだが、言い負かされたみたいで悔しくなり、なんとなくに返す言葉を考えていると、進む先の道路が煌めき、自己主張した。

 輝いた箇所を注意して見てみると、鏡の破片が灯台の明かりのように日を反射させていた。置いてけぼりにされた破片は、道路の端で砂利の中に紛れ、通行人たちを監視していた。

「あっ、今日は夕日が綺麗だよ」

 私に反射した光が、咲希ちゃんをも照らし出したのか、彼女は太陽が沈む左の方向へ顔を向けた。

 咲希ちゃんの顔越しに、私も太陽を見た。

「本当だ。綺麗」

 いつもの日はこんなに輝かしかったのだろうか。ポッカリと穴が空いているように、丸い輪っかは、ぼやけることなくはっきりと空に浮かんでいた。辺りを彩るオレンジ色の光彩も、主軸の太陽を汚すことなく見事に調和し、この瞬間の支配者を明確に示していた。

 私たち二人はしばらくの間、太陽に従属し、顔を動かせないでいた。

 だが、永遠の支配者など存在しない。

 初めのうちにあった感動は、時間と共にどこかへ連れ去られ、この景色を決定づけるものは何もなくなった。そうなるともうオレンジの光だとか、空の輝きだとかは、なんの用もなさなくなる。

「綺麗だったね」

 私に向き直った咲希ちゃんが話し始める。

「あんなに綺麗な夕日、初めて見た気がする」

 思ったことを伝えた。これ以上の景色は他にないように思う。

「それは嘘だよ。何年も生きているのに、このくらいの夕日を見たことがないなんて。そんなのおかしい」

 思ったことを正直に言ったのに、疑われてしまい、少しムッとした。彼女には疑われたくなかった。世界でただ一人、自分のことだけは、疑って欲しくなかった。そもそも人を疑うなんて、彼女には似つかわしくない。

「そうなのかな。たしかに忘れているだけなのかも」

「でしょう。優雨は忘れっぽいんだなあ」

 妥協して応えたのに、いい気になっている咲希ちゃんに苛立ち、返事をしなかった。ほんのちょっとの意地悪。すると、続いていた会話は途切れてしまった。

 妙な隙間が生まれる。

 意味を失った太陽に復活の兆しを見出そうと、もう一度首を捻った。

 そこには無機質さしかなかった。……やはりこの景色は死んでしまったのだ。輝く太陽を見ても、心は動かされない。先程の感動は本当に綺麗さっぱりなくなっていた。風景の死というものは、信じられないくらいあっけなかった。

 こうなってくると、湧き起こった感動自体を疑いたくなる。沈みゆく太陽を見て、感じたものがあったのだろうか。ただの自然の風景だ。なんの変哲もない毎日の現象……。そこから意味を受け取るなど馬鹿らしい。

 次第に関心は太陽から咲希ちゃんへと移っていった。

 夕日に照らされる彼女の横顔を見ていると、周りの風景がどんどんと遠のいていった。彼女が浮き出て見える。周りのものはぼんやりと、彼女だけははっきりと。その象徴された世界に、私は魅了されていった。

「ん? どうかした?」

 彼女のこの声で外界たちは均衡を取り戻した。

 そうだ。彼女の美しさを知っているのは私だけだ。他の人は夕日に照らされる彼女の姿を知らない。

 咲希ちゃんを我がものにしたいという思いが、突然強く湧き起こってきた。どこにこれほどのエネルギーを秘めていたのだろう。まるで私のものではないみたいだ。いつもの私からは考えられないほどの強い思い。

「おーい」

 咲希ちゃんは、私の目の前で手を振っていた。

「なに?」

「ぼーっとしていたから、どうしたのかなと思って。大丈夫? 疲れているの?」

「大したことじゃないよ」

「そうなの? なんか怖い顔してたけど」

「怖い顔? 私が?」

「うん。表情がなくて、何を考えているのか分からない顔」

「不気味だった?」

「不気味ではなかったけれど……。いつもは見せない顔だった」

 そんなに珍しい表情をしていたのだろうか。自分では分からない。

「考え事をしていたの」

 詳しいことを話すつもりはなかったのに、私の意とは関係なくすんなりと言葉が出てしまった。

「へえ~。どんな?」

「秘密」

「教えてくれてもいいじゃん、けちー」

 咲希ちゃんは恨めしそうに私を見上げた。

 彼女に対して秘密を持っている、という事実は、私を優越感に浸らせた。彼女が絶対に知ることのできない事柄を私は知っている。しかもその内容は、彼女自身に関する事なのだ。知らせるも知らせないも思いのまま。もちろん知らせる気はないが。

 咲希ちゃんを自分のものにしたいという思いは、しばらくの間私の中に渦巻いていた。大変なものを見つけてしまった。この欲はどうしようもなく強固で重いものだった。なにをしても動かされることはなく、それでいて重大な責任を私に感じさせた。放棄してはならない。

 やがて、長く続いていた田んぼ道は尽き、民家の塀へと突き当たった。そこからの道は左右へと分かれている。

 咲希ちゃんが進むのは右の道で、私は左の道、ここで私たちは別れることになる。

「それじゃまた明日ね」

「うん、また明日」

 私が返事をすると、咲希ちゃんは背を向け、右の道に進んでいった。

 今起こっている欲を確かめるように、去りゆく咲希ちゃんの背中を、じっと見つめた。

 背中が小さくなると、私は一人、帰り道についた。

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