20 避けられなかった
昼休み。
昨日考えた計画の改善方法を話すため、友佳ちゃんに話しかけようとした。辺りを見回してみたけれど、友佳ちゃんは教室にいなかった。
どこにいるのだろうか。捜すのは手間になるのだからずっと教室にいて欲しい。といっても、友佳ちゃんには友佳ちゃんの都合があるのだろう。こうなったら地道に捜すしかない。
席を立とうとしたとき、咲希ちゃんが生徒たちの間をぬってこちらへ近づいてくるのが見えた。何か用があるのだと思い、座り直した。
友佳ちゃんを捜すのは、咲希ちゃんの用事を聞いてからでもいいだろう。早く計画について話し合いたかったので、咲希ちゃんの用件はすぐに済ませるつもりだった。
咲希ちゃんは私の側に到着した。
彼女が何か言う前に、先制して私が口を開いた。
「どうしたの?」
立っている咲希ちゃんを仰ぎ見る。
いつもの咲希ちゃんとは様子が違っていた。といっても、どこが違うのかと具体的にいえるほどはっきりとした変化ではなかった。ただ一つ欠片が落ちてしまったような、全体としての調和がとれていない、アンバランスな……、そんな印象を受けた。瞳は、ただ一つの事柄だけを見つめていて、輝きを帯びていた。一心に何か得体の知れないものにのめりこんでいるようだった。
「仁和さんとのことについてどうするかを話せたらなと思って。解決方法をちょっとだけ考えてきたんだ」
私が計画の改善を考えていたのと同じように、咲希ちゃんも私が友佳ちゃんと仲直りする方法を考えてくれたみたいだ。
「どんな方法?」
「これまでは遊園地に誘ったりしていたでしょ? キーホルダーをあげようとしたのは仲直りするためではないけれど、効果を狙ったものだと思われちゃたからね。今度はシンプルに何も小細工せず、ただ謝るだけというのはどうかな?」
「でもそれは一番最初に試した方法で、失敗しちゃったじゃない」
「大丈夫、私に考えがあるから……」
「考え?」
思わず聞き返した。
咲希ちゃんは私の疑問に答えなかった。聞こえていなかったかと思い、気にしなかった。詳しい内容を聞かなくとも、とりあえず咲希ちゃんに任せてみることにした。失敗しても問題ないので、そこに一切の不安はなかった。
「優雨は何も心配することないよ。全て私に任せておけばいい」
「そういうわけにもいかないよ、咲希ちゃんだけに任せるだなんて。これは私の問題なのだから何か協力するよ。……いいや、私が自発的に行動するべきだよね。咲希ちゃんに頼りっぱなしじゃいけないよ」
「…………」
咲希ちゃんは私の言葉に何も反応してくれなかった。彼女が私を無視するなんて考えられなかった。
やはり咲希ちゃんはどこかおかしかった。私についての話をしているはずなのに、私などまるで目に入っていないかように、私のことを忘れたかのように、咲希ちゃんは自分の世界を展開しているように見えた。
「咲希ちゃん?」
「……ん? どうしたの?」
「ぼーっとしてたから大丈夫かなって」
「ああ、大丈夫だよ。私、ぼーっとしてた?」
いよいよ重症だ、自分が何をしていたか意識していないだなんて。
「体調悪いの?」
「そんなことないよ。そんなことないけど……」
咲希ちゃんの言葉は途切れてしまった。
しかし黙っていたのは一瞬で、すぐに次の言葉が発せられた。
「そうだね。私がこんなんじゃ、優雨に余計な心配をかけてしまうよね。気を引き締めていかないと!」
咲希ちゃんが持つ違和感は、私に不安を与えていた。身体の内側を風が突き抜けていくような不安定さを感じさせた。
「はりきり過ぎも良くないと思うよ。空回りして頑張りがマイナスに働いてしまう、なんてよくある話だよ」
なので咲希ちゃんにブレーキをかけることにした。これ以上私の知らない領域を彷徨って欲しくなかった。私が不安になっているのと同じように、咲希ちゃんも戸惑っているはずだ。そうに決まっている。こんな恐ろしい感覚、いままで味わったことがない。
「だからといって、だらけて行動するのもよくないと思うな。無気力ほどの病気もない。はりきり過ぎと無気力の程よい加減が分からないなら、せめて全力を尽くし努力するだけだよ」
「それは素晴らしい考えだと思うけど……」
何を言ったらいいのか分からない。下手に否定したら、私のために頑張ろうとしている咲希ちゃんに悪い思いをさせてしまうだろう。
……結局、振り切られてしまった。打つ手はなかった。
考えを切り替えることにした。
不安を感じたからなんだというのだ。不安は不安でしかなく、私が我慢すれば済む話だ。損害は何もない。
「たしかに咲希ちゃんの言うとおり、わざと加減をする必要はないのかもしれないね」
咲希ちゃんを押しとどめるのをやめた私は、勢いに任せて彼女の考えを肯定した。
「うん! 優雨に納得してもらって私は嬉しいよ!」
名前を呼ばれ、感謝されて私は幸福だった。
「それじゃ、仁和さんに話をつけてくるね」
と言っても友佳ちゃんは今教室にいないはずだ。
友佳ちゃんの席を見ると、いつの間に帰ってきたのか、彼女は自分の椅子に座っていた。
咲希ちゃんは再び人々の間をぬって、今度は私ではなく友佳ちゃんの席に近づいていった。
咲希ちゃんと友佳ちゃんの様子は私の席からでも十分に見ることができた。
そしてこう言う。
「仁和さん、今日の放課後、話があるの」
咲希ちゃんの声は、クラスメイトの声に負けず、私の耳に届いていた。周りのクラスメイトはそれほど大声で騒いでいるわけでもないので、咲希ちゃんの言っていることが伝わるのは当たり前なのかもしれない。
私は二人の様子をどうなることかと見守っていた。
いきなり話しかけられた友佳ちゃんは、片眉をピクリと反応させながらも、特に慌てることはしなかった。さすが友佳ちゃんである。私ならば驚いてしまい、しばらくの間、口をきけなくなっていただろう。
「そうか、分かった。場所は教室でいいか?」
「うん」
と咲希ちゃんは簡潔に言って会話を終了させた。
放課後になった。
これまで何度も行ってきたように、咲希ちゃんは私の前の席に座りながら、友佳ちゃんは自分の席に座りながら、他全てのクラスメイトがいなくなるのを待っていた。この時間は落ち着かないものだった。これから起こる友佳ちゃんとの言い合いを想像すると、ふわふわとした気持ちになり、このまま何事も起きず、家に帰り、一日が終わるものだと思ってしまう。私にはまだ役割が染み付いていないのだった。これからの時間が平穏に済むわけないだろう。友佳ちゃんとの対立は絶対に避けられないのだ。
時間がたち、人々はいなくなる。
今更ながら咲希ちゃんの考えを詳しく聞かなかったのを後悔していた。友佳ちゃんに謝る直前になると、先程どうとでもなると軽く考えていた気持ちが吹き飛んでしまい、明らかな不安が私の身にのしかかっていた。
この場で再び咲希ちゃんに質問するわけにはいかない。こうなったら不安を振り払うように努力せねばならない。
そしてもう一つ私を焦らせる事柄があった。
咲希ちゃんの提案を聞いたあと、その提案された対抗策をどうやって受け流すか友佳ちゃんと相談しなかったのだ。そこにはほんの少しの冒険心があった。無計画に咲希ちゃんに立ち向かってみようという無意味な野心があったのだ。今となっては素直に友佳ちゃんと対策をねっていればよかったと思い直している。といっても、放課後になるまで、私に不安は無関係であったので、事前に相談することなど絶対に不可能であっただろう。不安に付け入られたのがいけないのだ。
人々はいなくなり、三人だけの空間となった。
前に座っている咲希ちゃんは、教室に他のクラスメイトがいなくなったのを確認すると、確とした様子で立ち上がった。
私も咲希ちゃんを意識して立ち上がる。
私たちが行動を起こすと、友佳ちゃんはそれに応じる形で席を立った。
「あたしに話があるってどうしたんだ、二瓶さん?」
友佳ちゃんが質問を投げかけた。
「私じゃなくて優雨が話をするの」
「なら、用があるのは優雨なのか?」
「そうだね」
友佳ちゃんの質問を受けて、咲希ちゃんは淡々と、それでいて迷いのないように対応していった。
「ほら、優雨」
そう言って咲希ちゃんは私の背中を優しく押した。
「優雨の用といえば、あたしとの仲についてのことぐらいしか思い浮かばない。今回もその用事なのか?」
「うん。その通りだよ」
私ではなく隣にいる咲希ちゃんが答えた。今の質問は私に投げかけられたものなのだろう。友佳ちゃんの態度からそのことは容易に分かる。しかし咲希ちゃんが私を押しのけて答えてしまった。普段の咲希ちゃんなら、友佳ちゃんの意志を読み取り、他人へ向けられた問いかけに答えるなんてこと絶対にしないはずだ。やはり咲希ちゃんはどこかおかしい。
「そうか。大体の話の内容は予想できるが、それでも聞こうじゃないか。一体なんの話があるんだ、優雨?」
友佳ちゃんは、咲希ちゃんが自分の問いかけに答えてしまっても、特に気にすることなく話を続けていた。
……それよりも今は、私に話が回ってきているんだ。自分の役割を完璧にこなさなければならない。
「友佳ちゃん。ペンを持っていたのは私だったのに、友佳ちゃんのせいにしてごめんね。私がもっと注意深く確認しておけば、友佳ちゃんを攻めずに済んだのに、自分の不注意で仲を裂くようなことしちゃった。私は自分の間違いを深く反省しているんだ。できることなら、友佳ちゃんに文句を言ってしまう前に戻って、自分でペンを見つけたい。でもそれは不可能なんだ。だから、これから同じ間違いをしないように気をつけようと思うよ。十分に気をつけるから、以前のように私と仲良くして欲しいな」
咲希ちゃんの言うとおり、友佳ちゃんに対して、ただシンプルに謝った。そもそもなぜこのような言い合いが始まったかというと、私がペンの行方について勘違いをしていたのが原因なのだ。なので一番始めに戻り、友佳ちゃんを疑ったことについて再び謝った。そして、仲直りしたいと付け加えた。
「いいや、ダメだ。あたしは何があっても優雨を許さないつもりだ。一度そうと決めたのだから、簡単に覆すわけにはいかない。もし破綻を許してしまったら、意志の弱さが露見し、あたしはあたし自身を疑わなければならなくなってしまう。どうしてもそのような事態は避けたい。あたしはあたし自身のために優雨を否定するのだ」
「友佳ちゃん……」
友佳ちゃんの科白には、彼女の根本的な人格が、包括されているような気がした。――彼女がこの科白を考えているのだから、それは当たり前なのかもしれない――。友佳ちゃんはいつだって頑固で、自分の意見を貫き通し、正しさというものを曲げないようにしていた。
友佳ちゃんと会話しているにもかかわらず、私は咲希ちゃんの様子が気になって仕方なかった。友佳ちゃんとのやり取りが、頭の大部分を占めるべきなのに、咲希ちゃんの異変がチラチラと現れたり消えたりしていた。
咲希ちゃんの身体がふわりと浮いたようにみえた。それは次に移る予備動作だった。彼女の手を掴み、引き止めるべきだと、直感的に思った。しかし私の行動は間に合わなかった。咲希ちゃんは一歩前に踏み出した。
「どうして許してくれないの! 優雨は、謝りたい、仲直りをしたいという気持ちでいっぱいなのに、仁和さんは一切受け入れることをしない。私にはそんな残酷なことをする理由が理解できないよ。優雨の気持ちを否定して、一体何になるというの? いつまでも根に持って、優雨を許すことなく責め続けるなんて……。ペンなんてもうどうでもいいじゃない! 仁和さんは意地悪だ!」
これまで大人しく黙っていた咲希ちゃんは、一変し、悲痛な叫びを上げていた。聞いていて、苦悩の気持ちが重く伝わってくるほど、彼女の様子には切迫したものがあった。これまでも友佳ちゃんとのやり取りで、咲希ちゃんが友佳ちゃんに意見を言う場面はあったが、今起きたのは、以前の勢いを凌駕する、圧倒的な力を感じさせる攻勢だった。
咲希ちゃんの直接的な感情を受けて、私は、冷水をかけられたようなピシャリとした衝撃に襲われた。
衝撃が過ぎ去れば、次にやってくるのは動揺だ。咲希ちゃんがこんなにも強い敵意、そして情熱を見せるなんて思ってもみなかった。
友佳ちゃんも私と同じように、咲希ちゃんの訴えを受けて、素早い反応を返すことができないでいた。いいや、私は直前に、咲希ちゃんの僅かな異変を感じ取っていたのだから、この爆発で受けた衝撃は友佳ちゃんよりも軽微なはずだ。おそらく友佳ちゃんは、咲希ちゃんを見ても何も感じていなかっただろう。それに比べて私は、何かが起こることを予想できていたのではないだろうか。衝撃が全てをさらい、以前を思い出すのは困難であるが、私は私が意識していない領域で大事件を予感していた気がする。
しかし、咲希ちゃんが私たちに衝撃を与えて以降、最初に口を開いたのは、私ではなく友佳ちゃんだった。
「……二瓶さんは優雨を思いやっているんだな、そんなに熱くなるなんて」
友佳ちゃんは勇敢だった。この膠着した状態を切り開くなんて、固まってしまった私にはできなかった。
「もちろんそうだよ。友達のことを考えない人なんていない。優雨が困っていたら、私は問題を解決しようと精一杯手を貸すし、優雨が悲しんでいると私まで悲しくなる。だから優雨を助けようとするのは、私のためでもあるんだ。さあ、意地をはるのはそこまでにして優雨を受け入れてくれないかな。仁和さんにとっても、優雨にとっても、そして私にとっても、それが一番の選択だと思うよ」
友佳ちゃんの言葉に触発されたのか、咲希ちゃんはとどまることなく自己の考えをもらしていた。
咲希ちゃんはどこまでも純粋であった。透き通るような思いに満ちていて、淀みなど一切存在しなかった。
彼女は打算など考えず、本当にただ私のために行動してくれているのだろう。それが咲希ちゃんである。見ていて危なっかしいほどの善意に、私は強く惹かれたのだ。
「分かった。二瓶さんがそこまで言うなら、優雨と二人きりで話してみたいと思う、仲直りするとは約束できないけど……。二瓶さんに聞かれると素直に話ができないかもしれないから、二瓶さんは先に帰ってくれ」
と友佳ちゃんは弱り気味に言った。
咲希ちゃんの勢いに驚いた友佳ちゃんは、とりあえずこの場を収めようと考えているのかもしれない。
私は余計な口を挟まず、成り行きに任せようと思った。
「そう! ちゃんと話し合いをしてくれるんだね! よかった。また一方的に断られたらどうしようかと思っていたよ。ありがとう!」
咲希ちゃんは嬉々として友佳ちゃんにお礼を言っていた。
「まだ仲直りするとは言ってないぞ」
「それでもいいんだよ。仁和さんがきちんと話し合いをしてくれるってだけで、私は嬉しいんだ。役に立てたってことだから」
「……そうか」
友佳ちゃんはこれ以上何を言ったらいいか分からない様子で、困ったように手を首の後ろへ当てていた。
私も咲希ちゃんがここまで和やかな性格だとは思わなかった。たしかに咲希ちゃんは、基本的には優しく穏やかだ。だが敵意を向けていた相手にお礼を言うなんて! いくら咲希ちゃんといえども限度があるはずだ。このような言い方はできれば避けたいのだが、人間的ではないと思った。感情の忘却? 気分の転換? 分からない。分からない。……いいや、そもそも咲希ちゃんは、友佳ちゃんを敵対する相手だと思っていなかったのかもしれない。……分からない。
などと考えていたら、いつの間にか咲希ちゃんが目の前に近づいてきていた。
「頑張ってね。優雨!」
そう言って咲希ちゃんはにっこりと笑った。
「それじゃ、また明日!」
彼女はひらりと身を翻し、教室の出口に向かって一直線に歩いていき、やがて扉のむこうに消えていった。
後には私と友佳ちゃんだけが残った。
「二瓶さんがあんなあからさまに怒るなんて、考えられなかったよ。だからとても驚いてしまった。あそこで妥協案を示さずに、もっと対立を長引かせたほうよかったかな?」
「私も咲希ちゃんの変わり様には驚いたよ。うーん。まあ、咲希ちゃんが怒ってしまったから、友佳ちゃんの判断は懸命だったのかもしれないね。あそこで友佳ちゃんがさらに否定したら、咲希ちゃんどうなっていたか分からなかったもん」
「まあ、二瓶さんを追い出したのは、優雨と今後の予定について相談したかったから、という理由もあるんだけどな」
「ははは、それは気づかなかったな」
「で、これからどうするんだ? 今、あたしと優雨は話し合いをしていることになっているけど、和解するのか? それともまだ喧嘩は続くのか?」
「そうだね……」
さて、どうしよう。
仲直りするとすれば、咲希ちゃんと協力して一つの目標を達成する過程は、もうおしまいになってしまう。咲希ちゃんとあれこれ考える楽しみは、もう味わえなくなるのだ(もちろん、以降このような機会が絶対ないとはいえない。しかし、自らもう一度相談事を持ちかけるのは、不自然に思われるし、咲希ちゃんと協力すべき出来事が、自然に起こるとは考えにくい)。その代わりに、咲希ちゃんに安心を与えることができる。私と友佳ちゃんの関係を案じてくれた咲希ちゃんを安心させ、お疲れ様を言うのは必要なことなのかもしれない。
このまま喧嘩を続けたら、咲希ちゃんが今後どのような行動をとるのか、予想できなくなってしまう。いきなり怒り出されただけで、ドキドキしたのだから、もっと過激なことをされたらこっちは対応できない。しかし、一緒に友佳ちゃんに立ち向かっていくわけだから、咲希ちゃんとの仲を更に深められるだろう。
……今日の咲希ちゃんを見て、私は焦りと不安を感じていた。咲希ちゃんが私の知らない咲希ちゃんになってしまうような、咲希ちゃんの印象が根本から変わってしまいそうな、そんな感覚があった。これは昔、中学校の頃、友佳ちゃんに感じていた違和感と同じものだ。そう確信できた。こんな不快感はすぐにでも薙ぎ払ってしまいたい。そのためにも、捨て去りたい感覚をもう感じないようにするためにも、友佳ちゃんとは早急に仲直りすべきなのかもしれない。そうだ、そうしよう。友佳ちゃんとの喧嘩はここで終わりにしよう。それが一番賢明な選択だ。他の選択はない。
「私と友佳ちゃんは仲直りすべきだと思うよ」
ただシンプルにそれだけを伝えた。
「そうか。たしかにそうした方がいいかもしれないな。二瓶さんに強く当たられるのは、いくらあたしでも嫌だからな」
友佳ちゃんは私の意見を肯定してくれた。
「ついに計画も終わりに向かうんだね。私と友佳ちゃんが喧嘩しているなんて、咲希ちゃんはよく信じてくれたと思うよ。一応、ペンについてどうこうという理由はあったけれど、咲希ちゃんがなんの疑問も抱かずに、私の言うことを本当だと思ってくれてよかったよ。計画の途中で失敗したことは特になかったし、咲希ちゃんに、私と友佳ちゃんの関係を疑わることもなかった」
「あたしたちの演技がうまかったのか、二瓶さんが鈍いだけなのか、そこのところは分からないけどな」
友佳ちゃんがそう言ったとき、教室の扉が勢いよく開かれた。扉は最後にガタンと派手な音をたてた。
私は何事かと音のした方へ顔を向けた。
そこには咲希ちゃんが立っていた。
彼女は身体をこわばらせて私たちを睨んでいた。
私は全ての事情を悟った。咲希ちゃんは私たちの会話を聞いていたのだ。自分たちしか教室にいないと油断して、咲希ちゃんには聞かせられないことを話していたのに、咲希ちゃんはそれを聞いていたのだ。そして、自分が騙されていると知ったのだ。
急降下しているような感覚があった。足を辷らせたような感覚があった。血液がスススと、床に集まっていくような感覚があった。
身体は鈍く動きもしなかったが、頭だけが異常なほど高速に回転していた。状況の認識は十分だ。認識だけでは何も変わらない。ならばどうするべきだろう? ああ! どうするべきなのだろう!
呼吸までもが重く粘着質なものに感じられた。
足の力が抜けてしまう。けれどもここで崩れ去るわけにはいかない。膝をついてしまったら、この耐えきれない困惑に屈し、自身の過ちを認めてしまうことになる。なんとか足に力を入れて現状を保った。
「嘘つき!」
咲希ちゃんはこちらを睨みつけたまま、鋭く私を言葉の矢で貫いた。
「ち、違う!」
私はとっさに弁解の言葉を口にした。何か言わなければと思った。勝手に口は動き、勝手に適当な言葉を吐き出した。
……一体何が違うというのだろう。咲希ちゃんを騙していたのは事実だ。何も違わない。私は真実を否定したのだ。
「うるさい!」
咲希ちゃんの一言々々は、私をチクリチクリと刺していった。傷口からは血さえ流れず、刺さった棘を締め付けるだけだ。
「うるさい! うるさい! うるさい! どうして仁和さんと喧嘩している、なんて嘘ついたの? どうして私を騙したの? どうして私でなければならなかったの? 私は優雨と友達だった。なのに簡単に陥れられてしまうなんて、考えたくなかった!」
咲希ちゃんは私の知らない咲希ちゃんを持っていた。
……私は一つの真実に気がついた。咲希ちゃんにはもともとこのような面があったのだ。ただ私がその面を見なかっただけで、この嘘が始まる前から、もしかすると私と知り合う前から、このような乱暴な一面を持っていたのだ。普段穏やかそうに見えたのは、それが咲希ちゃんの通常の姿勢であり、乱暴な一面を出す機会がなかったからだ。人は、優しさ、誠実さ、厳しさ、恐ろしさ、と無数の面を持っているのかもしれない。私がこれまで、人の性格は固定されたものだと思っていたのは、普段の生活で見える部分しか見ていなかったからだ。日常は氷山の一角にすぎない。
次第に咲希ちゃんの瞳が潤んでいった。彼女は激しく瞬きを繰り返していたが、それがまずかった。目をとじるたびに瞳から水滴がこぼれ、頬を伝っていった。
咲希ちゃんの涙を見るのはこれで二度目だった。あのときと違い、今回の涙は私が流させた涙だった。
私は流れる涙をただただじっと見つめていた。咲希ちゃんの全ての思い、気持ちがそこに凝縮されているような気がした。だから私は涙から目をそらさなかった。そらしてしまったら、咲希ちゃんに対して失礼だと思ったからだ。涙が咲希ちゃん全てを表しているのなら、それを受け止めなければ、私は本当に不実になってしまう。
咲希ちゃんは頬を濡らしながら、途切れがちな声で言った。
「私は、優雨と仁和さんの様子が気になって、外で声を聞いていただけなのに……。こんなことになるなんて思ってもみなかったよ。優雨と仁和さんの仲直りする様子を聞いていたかったのに……、仲直りできなくても、二人がどんな話をしてどんな結論をだすのか、きちんとこの耳で確かめておきたかったの……。盗み聞きはよくなかったかもしれない。けど……、けど……!」
そこで咲希ちゃんの言葉は終わった。
沈黙が生まれた。私は何を言えばいいのか分からなかった。取り返しのつかないことをしてしまったのは分かっていた。それしか分からなかった。
咲希ちゃんはこの教室に入ってきたときのように、再び私を鋭く睨んだ。涙は途切れたように思われた。しかし実際は途切れていなかった。咲希ちゃんは、瞳からこぼれる涙を気にすることなく、私を見つめていた。そこには明確な意志があった。
「私は、一生懸命に解決法を考えていたのに、それ努力は一体何だったの? 馬鹿げている。私は二人のためを思って一生懸命に行動していた。けれどもそれは無駄だったんだ! いいや、もっと酷い。私が二人のことを考えるたびに、私は更に深く貶められていた! 優雨たちは真実を知っていて、私だけ滑稽に踊っていた。私は優雨たちに馬鹿にされていたんだ!」
「馬鹿にしてなんかいない!」
「じゃあ、どうして嘘をついたの?」
「それは……」
咲希ちゃんを手に入れるために計画を立てたと、正直に言っていいのだろうか。……それは憚られる。いつか真相を伝えなければならないとしても、そのときは今ではないはずだ。今、咲希ちゃんに好きだと伝えても、よい展開が訪れるとは思わない。私は責められる立場にいて、咲希ちゃんは責める役割を負っているのだから。役割に飲まれて冷静な判断が下せない状態に違いない。最悪の場合、私の気持ちを本当だと受け取ってくれないかもしれない。
「言えないんだね……」
「ごめん」
「別にいいよ。優雨は嘘つきなんだから、本当のことが言えなくて当然だよね。もし何か言い訳を言ったとしても、到底信じられないもん。なら黙ってくれたほうがましだよ」
「本当にごめん……」
こちらも泣きそうだった。
しかし泣くわけにはいかない。私は責められている側なのだ。それで泣くなんて、みっともなさすぎる。
「…………」
「…………」
私たち二人は沈黙した。
静けさは教室に満ちあふれ、誰もいないみたいだった。
「そろそろ私帰らなくちゃ。じゃあね、優雨」
咲希ちゃんは、そう言って、この場から走り去っていった、涙を打ち消すように拭いながら。後には、私と友佳ちゃんだけが残った。
夕日に侵された教室での出来事だった。