16 観覧車
電車に乗るのなど久しぶりだった。遠出する用事はあまりなく、学校までも徒歩で通っているので、電車とはあまり縁のない生活を送っていたのだ。
隣に座る咲希ちゃんは静かに寝息を立てていた。電車の揺れに応じるみたいに、私よりも小柄な身体が揺れていた。勢い余って私に寄りかかってくれないかと願っていたりもする。咲希ちゃんの体温をひとときでも感じていたかった。首元に覗く鎖骨が、はっきりと浮き出てて見えて、その骨に張り付いた皮膚を端から端までなぞってみたくなった。辷るように指を這わせれば、それだけで心地の良いものなのだろう。
今日は平日だった。私たちは授業を放棄して、これから遊びに行くのだ。平日に行こうと提案したのは咲希ちゃんだった。友佳ちゃんに誘いを断られた日の帰り道、咲希ちゃんは反抗的な目つきで遊びに行く日を告げた。私はそれに従わずにはいられなかった。咲希ちゃんの願いを聞いてあげたいと思った。話の流れからといえど、咲希ちゃんと出かけることになったのだ、入園券を使おうと提案してくれた彼女のためになりたかった。
揺れ動く電車の中で人々はまばらに座っていた。スーツ姿の人物や、学校の制服を着た少女もいた。私たちの学校の制服ではなかった。当たり前だ。この電車は私たちの学校から離れるように進んでいるのだ。同じ学校の生徒なら逆方向の電車に乗っているだろう。
あの少女は遅刻してしまったのだろうか。……でなければこんな時間に電車内で見ることはない。今は午前一〇時だ。学校に行こうとしているだけ、私たちと比べたらましだといえる。こんな大々的に学校をサボるなんて、今までの私には考えられなかった。咲希ちゃんのためとはいっても学校をサボるのにはやはり抵抗があった。しかし平日に行こうというせっかくの誘いを断れるはずがなかった。これからは友佳ちゃんに授業をサボるな、なんていえない。……いけない、いけない。せっかく咲希ちゃんが誘ってくれたのに、こんなマイナスなことを考えてはいけない。
私が少女を気にしているのと同じように、少女も私のことが気になっているようであった。時折チラチラとこちらを見てくる。私は少女と目を合わせようとしなかった。遅れてでも学校に行こうとする彼女に引け目を感じていた。
私たちにむけられた視線を感じていると、学校をサボったという不真面目さは背徳感に変わり、私の全身を駆け巡っていった。今回の外出は、咲希ちゃんと二人きりで学校から逃れようとしているようにも見えた。その逃避行を私は果てなく魅力的だと思った。ただ単に遊びに行くのではなく、私と咲希ちゃんが二人きりで出かけることによって、外出には特別に孤独な意味が与えられていたのだ。
目的地に着くまで約一時間半かかるのだけれど、電車に乗ってからの一〇分で咲希ちゃんは眠ってしまった。電車の中でお喋りできると思っていたのに少し残念である。とはいっても目的地に着いてからたくさん話せばいいのであって、そう落胆するほどのことではない。
電車は駅名を告げて停車した。ここは私たちが降りる駅ではない。目的の駅まで、まだ五駅あった。止まった駅のホームは、私たちが電車に乗った駅より広かったけれど、周りの風景はさほど変わらなかった。民家と緑に覆い尽くされた山々が方々に見渡せた。
制服を着た少女はその駅で降りていった。
遊園地に着いてから、私たちはジェットコースターやティーカップに乗って遊んだ。
お化け屋敷には、咲希ちゃんの猛烈な反対にあい、入ることができなかった。咲希ちゃんは怖がり過ぎだと思う。あんなもの、ただの作り物でしかないのに……。だがそれが咲希ちゃんのかわいいところでもあった。お化け屋敷に入るよりも、咲希ちゃんの怖がっている姿が見られたので、得をした。
やがてアトラクションに乗るのにも飽きてしまった。敷地内に花の咲いているエリアがあるというので、そちらに向かうことになった。園内の地図を見てみれば、アトラクションのあるエリアと花畑のエリアは同じ広さのようだった。この二つのエリアの他には、バーベキュー場やサイクリングコースなどがあった。
目的地までは、歩いて行くには厳しい距離があったので、園内を走っているバスに乗って向かった。
バスを降りると一面の花々が目に入った。視界の端から端までを二色が埋め尽くしており、他のものなど目に入らなかった。
「わあ、綺麗だね」
咲希ちゃんは目の前に広がる景色を、柔らかな瞳で見つめていた。
咲希ちゃんの背景にこそ花々が咲き乱れており、それは十分絵になっていた。一つの画面としてその光景は存在していた。咲希ちゃんがここに立っているから、後方にある花々は色を持ち輝いて見えるのであり、彼女がいなければ、私はこれほど花々に注目し、美しさを感じることはなかっただろう。いいや、私は景色を讃えているのではない。この一つの完成された画面を讃えているのだ。
「どうかした?」
固まってしまった私を見て、咲希ちゃんは声をかけてくれた。
「ううん、なんでもないよ」
この光景を写真に収めておきたかったが、咲希ちゃんに不審に思われるのは嫌だったので、結局言い出せなかった。……しかし咲希ちゃんが完成させた光景を、写真に収めることは可能なのだろうか。写真には咲希ちゃんと背景の花畑しか写らず、私が感じた感動までは残せないのかもしれない。
「あっちに丘があるみたいだね」
と私は前方を指差しながら言った。花々は見える丘一面にも咲き開いており、土が見えなくなるほどに表面を覆い尽くしていた。
「登ってみようよ」
咲希ちゃんは私の手を引っ張って、丘の方へ連れて行った。
頂上までの曲がりくねった道を歩いていくと、足元に咲いている花々を裂き、道を切り開いているような気持ちになった。辺りにはどこまでも変わらない風景が続いており、この道には終わりがないかのように思われた。手はつながれたままであった。
頂上は思っていたよりも高く、周囲を一望することができた。私たちが乗っていたバスの通ってきた道が遠くまで見え、その経路はやがて森の中へ消えていった。最初に遊んでいたアトラクションのエリアまでも見ることができた。といっても、ぼんやりと見えるだけである。アトラクションの詳しい様子や、ましてや人の行動を観察することは叶わなかった。けれども大きな観覧車だけははっきりと見て取れた。園内にいる限り、あの観覧車はどこからでも見ることができた。そうだ、この丘を降りたら観覧車に乗ってみようかな。まだ乗っていなかったんだ。
左手には海があった。丘に登る前は木々に邪魔されてしまい、海がこんな側にあると気がつかなかった。本当に青一色であった。海岸は限りなく続いていた。青の海は海岸の砂から始まり、空の彼方まで何者にも遮られずに伸びていた。
「風が気持ちいいね」
そう言った咲希ちゃんが持つ肩につくか、つかないかくらいの髪は、吹きゆく風に流されていた。
「そうだね。冬はもう終わったから、これから夏がくるんだね。暑い季節は嫌だよ。外を歩いているだけで汗をかく。ベタベタと張り付いた汗は気持ち悪いよ」
「そうかもね。でもその前に、今は春だよ」
咲希ちゃんはくすくすと上品に笑った。
私は春と秋をあまり意識していなかった。夏と冬こそが季節の代表であり、春と秋は感じるに及ばないのだった。春と秋は、夏と冬が入れ代わるつなぎ目のようなものであって、それ以上の意味を持たない。常々、春と秋は不要なのではないかと考える。春の半分を冬に、残り半分を夏に配分すれば、春は消える。秋も同じように……。
眼下に広がる菜の花とネモフィラの集合は、辺り一面を青と黄で埋め尽くし、大地を飲みこもうとしていた。丘の周りにはネモフィラが咲いており、それらを囲むように菜の花が日に照らされていた。
しばらくの間、咲希ちゃんと共にこの塗り替えられた表面を見守っていた。地面のうねりに合わせて花々も波をつくっていた。
「写真、撮ろうか」
咲希ちゃんが風景に目を向けたまま言った。
「ここで撮るの? 下で撮った方が咲いている花も一緒に写せて綺麗な写真が出来上がると思うよ」
「たしかにそうだね。ここで撮っても何も写らないか」
「背景に咲いている花を収めれば、今日ここに来たという記念になるからね。私は記念の一品が欲しいな」
「私もだよ!」
丘を降りたあと、近くにいた人に頼んで写真を撮ってもらった。咲希ちゃんは満面の笑みで写っていたが、私は咲希ちゃんの笑顔に遠く及ばない控えめな笑顔を作っていた。
バスに乗ってアトラクションのエリアに戻った。
もう遅い時間になっていた。そろそろ帰らなければならない。
近くにあったお土産屋さんに寄ることにした。
店内にはこの遊園地のオリジナルグッズや、クッキーやチョコレートなどのお菓子が所狭しと並んでいた。
私たちは置かれている商品を順々に見て回った。途中気になったものがあれば、立ち止まり、手に取り、咲希ちゃんと話しこんだ。
キーホルダーの棚に移動すると、私の興味は一気に引き寄せられた。私はキーホルダーが好きだった。あれもこれもと、どれも手にとって確かめてみる。小さなぬいぐるみがチェーンについているものや、金属製のものなどがあった。なかでも私が一番気になったのは、この遊園地のマスコットキャラクターのキーホルダーだ。木で作られたそれは、細工が非常に凝っており、こだわりを感じさせた。
「それが気になるの?」
咲希ちゃんが横合いから覗きこんできた。そのまま私の手からキーホルダーを掠め取る。
「なんで分かったの?」
「だってそればかり見つめているんだもの。誰だって分かるよ」
「私が、これを?」
「そうだよ。自分で気づかなかったの?」
たしかにこのキーホルダーに注目していたが、他人から見て分かるほど、永い時間見ていたとは思ってもいなかった。なので不意をつかれて少し恥ずかしかった。
「なんだか優雨らしいものを選んだね」
「どこらへんが私らしいの?」
「うーん、うまく言うことはできないんだけど……。そうだなあ……」
と言って咲希ちゃんは考えこんでしまった。
このままぼうっとしているわけにもいかないので、黙りこくる咲希ちゃんを動かそうとした。
「別に無理やり言わなくても大丈夫だよ!」
「いいや、無理に言おうとしているんじゃないよ。そうだな、全体的なイメージが優雨と合っているのかな」
「あはははは、そっか」
ぼんやりとしたことを言われてしまい、簡単な答えを一つ返す以外にすることはなかった。この不明瞭さが咲希ちゃんらしくもあるのだが。
「そうだ! このキーホルダーを仁和さんに買っていってあげたらどうかな」
「え?」
それは意外な提案だった。遊園地に来てお土産を買っているときに友佳ちゃんの名前を聞くとは思いもしなかった。友佳ちゃんについては、遊園地から帰ったあとに話をする事項なのであって、今話題にされるとは微塵も考えていなかった。
「お土産を買っていったら、仁和さんはきっと遊園地に行かなかったことを後悔するよ。思いっきり悔しがらせてあげようよ」
咲希ちゃんにまっすぐすぎる考えに、私は目のくらむ思いがした。
「そうだね。それはいい考えだね」
「でしょう!」
咲希ちゃんは自分の考えが一番の考えだとでもいうように胸をはっていた。
「それじゃ、買ってくるね」
「いってらっしゃい。私は外に出て待っているから」
レジに並んで会計を済ませたあと、店の外にいた咲希ちゃんと合流した。咲希ちゃんは私を見つけれると、手を振って自分の居場所を知らせてくれた。
日は沈もうとしていた。空は紅と青の二色に分かれ、中間では二つの色がぼんやりと混じり合っていた。
空を見ていたら、観覧車に乗ろうと考えていたことを思い出した。ここで思い出せたのは幸運だった。今、思い出せなかったら観覧車に乗るのは叶わなかっただろう。浮遊物を掴み取れたのだ。
「咲希ちゃん、観覧車に乗りたいな」
「い、今から?」
「そうだよ。今しかないよ!」
驚いた顔をしている咲希ちゃんに、私は力強く言った。
「そっか。じゃあ乗ろうか。優雨がそんなに勧めるんだから、乗らなかったら損した気分になっちゃう」
「うん! ありがとう」
乗り場で係員に二人分の乗り物券を渡してからゴンドラの中に足を踏み入れた。咲希ちゃんは、焦り気味に動いていくゴンドラにうまく乗れなかったようで、係員に手伝ってもらいながら中にいる私にペースを合わせていた。
遅れてきた咲希ちゃんは、当たり前のように私の向かい側に座った。
扉は閉められた。
ゆっくりと上昇していく。地面が離れていくのを見ると、観覧車に乗っているという実感がわいてきた。普段の生活よりもこの瞬間は現実味にあふれていた。代わり映えしない世界で同じことを繰り返す。決して悪いことではないけれど、たまには刺激も必要だ。無変化な繰り返しは精神を腐らせ、感動も屈辱も削ぎ取ってしまう。変化を取り入れれば、自動化された世界を脱却できる。その変化は前進でも後退でもいい。単調を防ぐことが重要なのだ。
私たちはしばらくの間外の景色を眺めていた。空の紅は消え入りそうで頼りなく、訪れた闇が世界の全てを支配しようとしていた。
「さっきまでいた乗り場が小さく見えるね」
咲希ちゃんの声を聞き、私は顔の向きを変えた。
「こんなにも高く昇ったのだもの」
「そっちからは何が見える?」
「街の光が見えるよ」
完璧な夜はまだ来ていないのに、街には細かな光が輝いていた。一つ一つが小さく、そして力強く、私たちのところまで輝きを届けていた。個々の点が集まり、街の光を形作っていた。
「わあ、本当だね。てっぺんまで昇ったら、もっと遠くの光まで見えるのかな」
「たぶん見えると思うよ」
咲希ちゃんは私の顔をはっきりとみた。目が合う。
「……優雨と仁和さんは仲直りできると思うよ」
ゴンドラは随分と高いところまで昇っていた。頂上まであと半分くらいだ。
「咲希ちゃん……」
突然、友佳ちゃんの話をされて驚いた。彼女の名前が口からこぼれた。
「私が仲直りさせてみせる、絶対に。ここまで優雨に付き合ったんだから、中途半端で終わらせたくない。仲直りすることは、優雨の願いだと思うし、私の願いでもあるんだ」
一つの空想が頭をよぎった。この一瞬を閉じ込めながらゴンドラは地面に落下するのだ。私たちが死んでも世界に支障をきたさない。ただ後処理をする人に迷惑がかかるだけだ。最も幸福である今を永遠に保存したいと思った。これ以上時間が過ぎて欲しくない。どうせ今に勝る幸福など訪れないのだから。
「そうだね。私も友佳ちゃんと早く仲直りしたいよ。そのために咲希ちゃんが協力してくれるなんて、心強いと思うよ」
「でも私は何の役にも立てていないけれどね」
「そんなことないよ。咲希ちゃんがいてくれるだけで安心できるんだ。私一人だったら仲直りを諦めていたかもしれない」
「そう言ってくれると嬉しいな。実は、優雨にとって私は不必要なんじゃないかと心配だったんだ。私のいないほうがうまくやれるんじゃないかって……」
「絶対に違う!」
「うん。知ってる」
「咲希ちゃんが不必要なんて事態は絶対に訪れない。私の全てをかけてそのことが言える。咲希ちゃんはいなくてはならない人なんだ……」
ハッとした。
今ここで想いを伝えるべきではないか? ゴンドラという密室に二人きり。これ以上の機会はない。向かいに座る咲希ちゃんに歩み寄っていき、その唇に唇を合わせれば全てが解決するのだ。封が切られたように内蔵された気持ちは解放され、結末が訪れる。
……私にその勇気はなかった。立てられている計画から脱線することは、禁忌のように思われ、私を可能性から遠ざけていった。
「だからこれからもよろしくね。咲希ちゃん」
「私こそよろしく。何をしてでも優雨と仁和さんの仲を取り戻させてみせるから」
ゴンドラは頂上にたどりついた。




