15 入園券
再挑戦の場に教室を選んだ。同じ場所で断られれば、回避すべきであった不幸な光景を、咲希ちゃんの記憶に強く刻めると思ったからだ。
放課後になり、クラスメイトたちは教室から離れていく。一人減り、二人減り……。クラスメイトの数が少なくなっていくと、私たち三人の教室を占める割合が大きくなっていった。それは本番への幕開けが近くなっていることを示していた。
私は自分の席に座り、三人だけになるのを待っていた。前の席には咲希ちゃんが座っている。そこは彼女の席ではないけれど、本来の持ち主である男の子が教室を出ていったので、一時的に彼女が拝借しているのだ。咲希ちゃんは椅子の背に身体を向けて、眠たそうに眼をうつらうつらとさせていた。本当に寝てしまわないか心配になる。
一人、また一人とクラスメイトたちは舞台を降りていく。彼らはこれからの時間に不要な人物であるため、排斥されるのはやむをえない。
時間の経過は水飴の中を回航していくようにゆっくりと濃密なものであった。肌に張りつき若干の煩わしさを感じるものの、この海流は私を支え、安定を与えてくれた。しかし気を抜いたら流されてしまいそうだ。
最後のクラスメイトが退出した。彼女はいつまでも帰らずにいる私たちを、訝しんでいる様子だったが、深い詮索をせずに帰っていった。
扉が閉まると、友佳ちゃんは席を立ち、こちらに近づいてきた。
「また用があるんだってな。一体どうしたんだ?」
友佳ちゃんは、私たちが話を始めるよう促してきた。
この前と同じように、友佳ちゃんは教室で待っていると、咲希ちゃんには伝えておいた。そうしたら、「呼び出しに応じてくれたのなら、仲直りできるかもしれないね。実は話さえ聞いてくれないかもと思っていたんだ」と言われてしまった。教室に残るよう友佳ちゃんにお願いするのではなく、なんの前触れもなく呼び止めた方が、よかったのかもしれない。
改善すべきところが一つ見つかると、芋蔓式に他のダメなところも見つかってしまう。先程の友佳ちゃんの科白もどこかおかしい。仲直りが断られてしまったという事実があるのだから、「一体どうしたんだ」とは訊かないだろう。喧嘩に関することを話に来たと、友佳ちゃんは予想するはずだ。
しかしもう遅い。場面はもう始まってしまったのだから、現在の条件で最善をつくすしかない。
こんなにも前向きになれるのが、自分でも不思議で仕方なかった。これが恋によるエネルギーだと、私はもちろん知っていたけれど、以前の私と比べて変わりすぎている。原因が恋であるのは確実なのだが、どうにも納得できないでいるのだ。実感することができない、ともいえるだろう。身体の芯まで届かず、今にも剥がれ落ちてしまいそうな不安定さを見せていた。そうは言ってもエネルギーの強さは、退化する様子を見せないほど強いものだった。
友佳ちゃんに声をかけられて、私たちは立ち上がった。
私のことを励ますように、咲希ちゃんがとんと背中を軽く叩いた。
「友佳ちゃん!」
気合と共に彼女の名を呼んだ。
「なんだ?」
応える声に優しさがこもっていると感じたのは私だけなのだろうか。……そうであって欲しい。咲希ちゃんが同じようなことを感じていたら、作戦の失敗が近づいてしまう。友佳ちゃんの声は厳しく聞こえなければいけないのだ。
「この前はわざわざ仲違いするようなこと言っちゃってごめんね」
友佳ちゃんとの距離は、ほんの一メートルほどであるのに、深い谷が私と彼女の間に刻まれているように感じられた。今、話をしている友佳ちゃんは、私が知っている友佳ちゃんではなく作られた人格であることを、秘められた意識が読み取っているのかもしれない。今の私も友佳ちゃんと同じく作られた人格だ。友佳ちゃんは私のことをどう思っているのだろう。私と同じように遠い存在であると感じてくれているのだろうか。
「ああ、そんなことを言いに来たのか」
「いきなりだけど、友佳ちゃんと遊べば、壊れてしまった関係を取り戻せると思っているの。だから一緒に遊園地へ行こう?」
言った直後に、切り出すのが早かったかもしれないと気づいた。
「あたしと?」
「うん! 私と友佳ちゃんで!」
「行かない」
返答は短く鋭かった。
この瞬間から、友佳ちゃんの言動に苛立ちが混じり始めた。
否定的な態度への切り替えは見事なものだった。直前に発した私の言葉がスイッチになったかのように俊敏で明確な切り替えだった。
「そんなこと言わないで一緒に行こうよ。入園券も買っておいたんだ」
一度断られても私は再び食らいついた。ここで引き下がらないしつこさが、芝居に現実味をプラスする。
入園券を友佳ちゃんから見えるように示した。
「本当に入園券まで買ったのか、結局は無駄になるのに……。あたしの意志は変わらず、遊びになんか行きたくない」
友佳ちゃんははっきりとした語気で私の誘いを改めて退けた。
「でもやっぱり私は友佳ちゃんと出かけたい」
一歩前へ踏み出て、友佳ちゃんの右手を私の両手で包みこむように握った。友佳ちゃんの体温は高いように感じられた。緊張しているのだろうか。
「行かないって言ってんだろ!」
握った手は振りほどかれた。
怒号によりピシリと場面が凍りついた。
友佳ちゃんの二面性はやはり完璧で、演技だと分かっているけれど、私はその迫力に底なく惹きつけられた。
「どうしてそんなにもしつこいんだ! 一度言えば分かるだろ! 何度も何度も同じことを言っているのに理解しないだなんてどうかしている」
友佳ちゃんの眼光は鋭く、これが演技でなかったら、見つめられた私は怯えきっていたに違いない。
「あらかじめ入園券を買ったのも、あたしが断りにくい状況を作るためじゃないのか? いいや、そうに決まっている。じゃなければ、わざわざ手間をかけて買いに行ったりしないだろう」
見抜かれていた。入園券を買ったと友佳ちゃんには伝えていなかったはずなのに、こうもピタリと言い当てられるとは思いもしなかった。
こんなに酷く言われても泣かないだなんて、咲希ちゃんは強かった。前回の場面からの経験で、今回も厳しく言われると覚悟していたのだろうか。そうだとしても彼女の強さに変わりはない。いくら覚悟を決めていても、実際の出来事に接してみると、固められた決意は無残にも崩れ落ち、無慈悲な事実が覆いかぶさることは多々ある。その現状を咲希ちゃんは耐え抜いてみせたのだ。
私に迷惑をかけないために、咲希ちゃんは我慢していたのだろうか。それとも自分自身のため? いずれにしろ咲希ちゃんの栄誉は確実だ。
「それは……」
私は適切な弁解を試みようとした。しかし言葉は続かなかった。このような反撃を予想していなかったので、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
「何か言うことがあるのか?」
友佳ちゃんは追い打ちをかけてきた。
「いや……」
頭をフル回転させてもいい返しは思い浮かばなかった。
「ないなら口を開かないでくれ。紛らわしいんだ」
友佳ちゃんの短い追撃は、私の心に深く刺さった。彼女の言葉は、私に望まれて生成されたもののはずだ。今の私を蝕んでいるのは私自身なのだ。
これまでは何を言われても平気だったのに、先程の言葉だけはうまく回避できなかった。けれども耐えた。これを乗り切れば咲希ちゃんが慰めてくれると思って、それだけを頼りに猛攻を耐え抜いた。
「もういいか?」
友佳ちゃんは片眉を釣り上げながら言った。
「待って!」
別に言うことはなかったけれど、引き止めなければ会話が終わってしまう。もっと長引かせて咲希ちゃんの記憶に強く言い合いを植え付けるべきだと思った。
しかし友佳ちゃんの考えは私と同じではなかったようだ。
「もういいだろ!」
友佳ちゃんは怒号を置き去りにして私たちに背を向けた。
彼女の背中がどんどんと遠くなっていく。
呼び止めることは叶わないだろう。余計な言葉をかけても友佳ちゃんには決して届かない。
なので私はその背中を見送るだけにとどめた。
教室の扉が激しく閉められ、やがて静寂が訪れた。
この場所の時間が動くことはなく、全てが停止し意味を失ったかのように思われた。しかしそれは一瞬だった。
私と友佳ちゃんが言い合いを演じている間、咲希ちゃんは一言も喋らなかった。
「また断られちゃったね」
隣にいる咲希ちゃんが言った。
「うん……」
これに対し私は弱々しく応えるのみであった。
「仕方ないよ。きっと仁和さんの機嫌が悪かっただけだよ。もっと別のときに誘っていれば、成功していたかもしれない」
と言って咲希ちゃんは私を励ましてくれた。
けれども励ましの言葉にしては物足りない声音であり、私が求めているものとの間に差異を感じた。
「詰めが甘かったんだ。徹底的にやるべきだった。どうやっても逃げられないような包囲網を作り、閉じこめるべきだったんだ。そうすれば優雨と仁和さんは一緒に遊園地へ行けた」
咲希ちゃんは私から顔を背け、独り言のように呟いていた。何故か咲希ちゃんに見捨てられたように思え、不安になった。
しかし次の問いかけは、いつもの柔らかな調子でなされた。これを聞き、私の不安は吹き飛んでしまった。
「入園券どうしようか」
「うーん、どうしよう」
友佳ちゃんに断られた今、二枚の入園券は役目を失い、ただの紙切れとなってしまった。本来の目的は失敗したのだから、持っていても仕方がなかった。
「捨てるのももったいないから、私たちで使っちゃおうか」
「私と咲希ちゃんで?」
「そうだよ。他に誰がいるの?」
咲希ちゃんの提案を聞き、私は喜ばずにはいられなかった。友佳ちゃんが断ったことにより、私は咲希ちゃんと一緒に出かけられる機会を手に入れた。それはまさに、私が密かに望んでいた成り行きだった。