11 しみわたり
「許してもらえなかったね……」
「うん」
友佳ちゃんが出ていったあとの教室で、私たちは反省会を執り行っていた。
机をはさみ、向かい合って座る咲希ちゃんは、うつむきがちでぽつりぽつりと言葉をもらしていた。
「ごめんね、泣いちゃって。優雨を応援するつもりで行ったのに、足手まといになるなんて……」
「足手まといだなんてそんなことないよ。咲希ちゃんは私のためによく頑張ってくれた。咲希ちゃんがいなかったら、私は謝りに行けなかった。友佳ちゃんと向かい合えたのは、咲希ちゃんのおかげだよ」
「ごめんね……」
咲希ちゃんは何度も何度も、憑かれたように謝り続けていた。何がこんなにも彼女を駆り立てているのだろうか。友佳ちゃんが怒りを向けていたのは私だ。咲希ちゃんではない。ならば彼女が落ちこむ必要は一つもない。咲希ちゃんは安全地帯に立つ傍観者であって、私と友佳ちゃんの寸劇を悠々と見守っていて欲しかった。この衝突は咲希ちゃんのために演じられたものだ。役者は病人で見物人こそが健全なのだ。なのに彼女は自身を傷つけて止まない。
咲希ちゃんの右手が机の上を彷徨っていた。何を求めればいいのか分からない様子で、彼女の分身は木目と木目の間を行ったり来たりしていた。
私の旅人は彼女のテリトリーに侵入した。自己の領域が侵されても彼女は大々的な反応を示さなかった。しめたものだと思い、旅人は彼女に接近していった。初めのうちは周囲を窺うのみであったが、やがて覚悟を決め、彼女の手の甲をなぞってみた。しかしそれでも反応はない。仕方なく私は彼女の右手を握った。
咲希ちゃんの瞳から再び涙があふれ出した。私の手を握る力が強くなった。握りつぶされそうな痛みに私は耐えることになった。普段の咲希ちゃんからは想像もつかないような力の強さだった。
「また泣いちゃった。ダメだって分かっているのに涙が止まらない。私の感性はもう壊れてしまったみたい。自分の思い通りにならない身体なんてもう捨ててしまいたい」
「大丈夫だよ。咲希ちゃんが落ち着くまで、私はいつまでも待っているから」
「しばらくこのままでいて……」
咲希ちゃんの望みどおり、私は彼女の手の感触に翻弄されたままでいた。
これは当初の計画とは外れた出来事だった。私が悲しみ、咲希ちゃんが慰めるはずだった。逆になってしまったのだ。けれどもこのままでいいと思った。咲希ちゃんと親密になるという目標はどちらでも達成できる。これも私が望んだ一つの形だ。実際、咲希ちゃんに頼りにされて、私は心地よい思いがした。
……………………。
…………………………。
「よし! もう大丈夫!」
咲希ちゃんはうつむくのをやめ、顔を上げた。
日は暮れようとしていた。
咲希ちゃんと私の手が結ばれてから、彼女はずっと顔を上げずにすすり泣いていた。前髪が彼女の顔を隠し、その表情は窺い知れなかった。しかし泣き声が聞こえるのだから、やはり彼女は私のため自身のために涙をこぼしているのだろう。
しばらくすると泣き声は聞こえなくなった。咲希ちゃんが泣き止んだのだと知った。けれども彼女は顔を上げなかった。平穏が訪れたと思ったのに、彼女の顔を見るまでは安心できなかった。私は彼女を本当に心配していた。
咲希ちゃんを泣かせたのは私だ。先程の場面を考え出し、現実にしようと企んだのは私なのだから、友佳ちゃんの威圧に負けて咲希ちゃんが泣いてしまったのだとしても、友佳ちゃんの奥には私がいて、責任をとるべきは私なのだ。しかし咲希ちゃんを泣かせてしまっても、私は罪悪を感じなかった。この瞬間に罪は存在しなかった。誰が私を咎めようか。友佳ちゃんは自分が泣かしてしまったことに戸惑いを感じているに違いない。教室を出て行く前の彼女の顔を見れば明白である。ならば友佳ちゃんが私を糾弾することはない。咲希ちゃんは作戦を知らない。そもそも友佳ちゃんさえも攻めていないだろう。泣いてしまったのは自身が弱いからと思っているに違いない。じゃなければ、こんな永い時間泣き続けてはいないだろう。彼女の涙には友佳ちゃんへの恐怖と、自身の情けなさを悔いる気持ちが、織り交ぜられているように思われる。
私と咲希ちゃんの低い呼吸音が教室を満たしていた。永遠にこの時間が続いてもいいと思った。咲希ちゃんと教室という檻に閉じこめられたまま、夏を越え冬を越えたかった。朝になっても教室に入ってくる者はおらず、無言の時間は過ぎていき、また夜が来る。そんな空想をしてしまうほど、二人だけの教室は居心地が良かった。
咲希ちゃんは泣き止み、一番不安定な時期は過ぎたはずだ。それでも握った手は離されなかった。鎖は緩く、いつでも振りほどくことができた。
「本当に? 無理してない?」
「うん! 何も問題はないよ!」
咲希ちゃんは笑顔で言った。その笑顔は無理してつくられたものには見えなかった。先程までの憂鬱さはどこにいってしまったのだろう。私を見つめる顔には、あどけなささえもまとわれており、この人がさっきまで泣いていたとは信じがたかった。
この気分転換の速さを羨ましく思った。私ならばいつまでもくよくよと引っ張って、ここまでスパッと物事を切り捨てることはできなった。
咲希ちゃんが笑顔になるのは喜ばしいことだった。
「私のことはもうおしまい! それよりも優雨の事情の方が重要だよ。なにせ友達を失うか保ち続けるかの瀬戸際にいるんだからね。なんとかして仁和さんとの仲を元に戻さないと」
「う、うん」
咲希ちゃんのテンションについていけないでいた。しかし、無理矢理にでもついていなねばならない。彼女は私のために動こうとしているのだ。なのに私だけ置いてけぼりのままじゃいけない。
「どうやって友佳ちゃんとの仲を取り戻したらいいかな?」
「そうだね……」
そう言ったきり、咲希ちゃんは目を閉じて黙りこんだ。きっといい方法を考えてくれているのだろう。
目の前に座る咲希ちゃんはもういつもの調子に戻っていた。彼女の語調、仕草、呼吸からそのことが察せられた。泣いている咲希ちゃんも物珍しい感じがして嫌いではないが、やはり私はいつもの咲希ちゃんが好きだ。
「やっぱりもう一度謝るしかないんじゃないかな。一度断られたのにまた謝るなんて、怖いと思う。けれど今は、ただ頭に血が上っているだけだよ。時間がたてば熱も冷める。時間をおいたあと、また仁和さんのところに行ってみようか」
拒否する理由はない。
「そうだね。たしかに私と友佳ちゃんの仲が、そう簡単に壊れるとは考えられない。友佳ちゃんは怒りに任せてでまかせを言ってしまい、今頃後悔しているのかもしれない。私から再び歩み寄れば、事は簡単に解決するのかも」
「決まりだね!」
立ち上がり、咲希ちゃんは教室を出ていこうとした。その後ろ姿はどこか新しい季節の訪れを思い起こさせた。
やはり教室に囚われるなんて妄想は叶わなかった。