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ハンカチ  作者: 伊藤
1/25

1 気づき

 蛇口から水が流れ落ちている。

 手を洗ったあと、ポケットを探ってみたが、そこにハンカチは無かった。今日は持ってくるのを忘れてしまったみたいだ。

 幽霊のように垂らした手から水滴が滴り落ちる。

「どうしたの?」

 隣にいた咲希さきちゃんが私の異様な格好を見て声をかけてくれた。

「ハンカチ忘れちゃって……」

「なら私の貸してあげるよ」

 と彼女は、自分が使ったあとのハンカチを差し出した。

 誰かが使ったあとのハンカチで、手を拭うのは少し躊躇われたが、贅沢をいうわけにはいかない。

 ハンカチを受け取り、手の甲に被せると、じんわりとした湿り気が感じられた。

 それでも十分に役目を果たしてくれる。水滴を拭き取り終わると、咲希ちゃんに借りたハンカチはずっしりと重みを増していた。

 咲希ちゃんの手を覆っていた水滴と、私の手を覆っていた水滴が混じり合っている、と想像したら、やけに恥ずかしくなってしまった。

 咲希ちゃんの方を見ると、彼女も同じことを考えていたのか、頬を紅く染め曖昧に微笑んでみせた。

 その瞬間、私は恋に落ちた。

 彼女の微笑みが急に愛おしくなった。今すぐ抱きしめたい衝動に駆られた。だが過剰な感情は瞬間的なものであり、それが過ぎ去ったあとの私は若干の余韻を残しつつも、至って冷静そのものだった。

 しかし私の心から恋が消え去ることはなかった。

 ぽうっと自身の頬が紅くなるのを感じた。

 その紅みを打ち消すように、私は慌てて言った。

「ハンカチありがとう」

 そして重みの増したハンカチを返す。

「どういたしまして。ごめんね、使ったあとのやつなんか貸しちゃって。嫌だったでしょう」

「そんなことないよ。嫌だったら使ってないし。借りてよかったと思っているよ」

 何を言っているだろう、私は。借りてよかっただなんて。

 彼女への好意が口からこぼれ出てきてしまいそう。

 そんな軽率なことしちゃダメだよね?

「借りてよかったって。なんだか変態っぽいなぁ」

「そ、そんなこと……」

 ないとはいえない。

 変態っぽいか……。咲希ちゃんが使ったハンカチを使って喜ぶ。確かに変態っぽいかもしれない。

 いや、別に私は喜んでなどいない。ただ少し想像していただけだ。

 ……もう一度彼女のハンカチを借りたいな。どうにかして手に入れる機会を作れないかな。

 私は彼女の存在に、完全に思考を侵されていた。人はこうも簡単に変わってしまうものなのだろうか。

「あはは、冗談だよ。ちょっとからかっただけなのにすぐ慌てる。そんなんじゃこの先やっていけないよ」

「もう! 咲希ちゃんったら」

 私はそっぽを向き、拗ねた素振りをしてみせた。

「わわっ、ごめん」

 彼女は私の機嫌をなおそうと、横合いから顔を覗きこんでくる、それも申し訳なさそうに。愛しい人が私の意のままに行動しているようにみえて、充実した気持ちになった。

 ちらりと彼女の方へ視線を向けると、目があった。そして彼女は微笑んだ。

 ああああああああ!

 抱きしめたい、抱きしめたい、抱きしめたい、抱きしめたい!

 コテンパに骨が折れるまで抱きしめたい。彼女の骨が折れてはかわいそうだから、折れた骨と自分の骨を交換したい。

 自分でも何を考えているのか分からない!

 ただ行き場をなくした激情だけがあった。

「仕方ないな。許してあげるよ」

 と私は気取ってこたえた。

「うん。ありがとう!」

 彼女は私の左手を両手で握った。

 いきなり予想していなかった行動をされ、私はドギマギしてしまった。手のひらの暖かさが伝わってくる。

 きっとまた私の頬は紅潮していただろう。

「どうしたの?」

 今度こそ彼女は、私の頬の紅みに気づいたようだ。

 疑問符を浮かべた顔で近づいてくる。

「な、なんでもない!」

「でも、ほっぺ紅いよ? 熱でもあるの?」

「大丈夫だから!」

 彼女の左手が私のおでこへすぅと伸びてくる。

 今触られたらまずい。自分でもどうなってしまうか分からない。これ以上紅くなったら、頭が破裂してしまいそう。

 細くてきれいな指が段々と迫ってくる。

 逃げようにも左手を握られているので逃げられない。絶体絶命。

 だが、彼女の手がおでこに触れることはなかった。

 予鈴が鳴ったのだ。

「あっ」

 と言って彼女は握っていた手を放した。

 少し残念に思う。

 いいや! 思わない。なにが残念なものか! 命が助かったのだ。一安心。

「そろそろ戻ろっか」

「そうだね。授業始まっちゃったら困るし、急いで戻ろう」

優雨ゆうは真面目だなぁ。少しくらい遅れても平気だよ」

「ダメだよ。時間はきっちり守らないと」

「わざと遅れて行ってみない?」

「咲希ちゃん!」

「はいはい」

 その逃避を思わせる提案に、ほんの少しの魅力を感じつつも、私は彼女の背を押してトイレから出た。そして本鈴が鳴る前に教室へ戻っていった。

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