1 気づき
蛇口から水が流れ落ちている。
手を洗ったあと、ポケットを探ってみたが、そこにハンカチは無かった。今日は持ってくるのを忘れてしまったみたいだ。
幽霊のように垂らした手から水滴が滴り落ちる。
「どうしたの?」
隣にいた咲希ちゃんが私の異様な格好を見て声をかけてくれた。
「ハンカチ忘れちゃって……」
「なら私の貸してあげるよ」
と彼女は、自分が使ったあとのハンカチを差し出した。
誰かが使ったあとのハンカチで、手を拭うのは少し躊躇われたが、贅沢をいうわけにはいかない。
ハンカチを受け取り、手の甲に被せると、じんわりとした湿り気が感じられた。
それでも十分に役目を果たしてくれる。水滴を拭き取り終わると、咲希ちゃんに借りたハンカチはずっしりと重みを増していた。
咲希ちゃんの手を覆っていた水滴と、私の手を覆っていた水滴が混じり合っている、と想像したら、やけに恥ずかしくなってしまった。
咲希ちゃんの方を見ると、彼女も同じことを考えていたのか、頬を紅く染め曖昧に微笑んでみせた。
その瞬間、私は恋に落ちた。
彼女の微笑みが急に愛おしくなった。今すぐ抱きしめたい衝動に駆られた。だが過剰な感情は瞬間的なものであり、それが過ぎ去ったあとの私は若干の余韻を残しつつも、至って冷静そのものだった。
しかし私の心から恋が消え去ることはなかった。
ぽうっと自身の頬が紅くなるのを感じた。
その紅みを打ち消すように、私は慌てて言った。
「ハンカチありがとう」
そして重みの増したハンカチを返す。
「どういたしまして。ごめんね、使ったあとのやつなんか貸しちゃって。嫌だったでしょう」
「そんなことないよ。嫌だったら使ってないし。借りてよかったと思っているよ」
何を言っているだろう、私は。借りてよかっただなんて。
彼女への好意が口からこぼれ出てきてしまいそう。
そんな軽率なことしちゃダメだよね?
「借りてよかったって。なんだか変態っぽいなぁ」
「そ、そんなこと……」
ないとはいえない。
変態っぽいか……。咲希ちゃんが使ったハンカチを使って喜ぶ。確かに変態っぽいかもしれない。
いや、別に私は喜んでなどいない。ただ少し想像していただけだ。
……もう一度彼女のハンカチを借りたいな。どうにかして手に入れる機会を作れないかな。
私は彼女の存在に、完全に思考を侵されていた。人はこうも簡単に変わってしまうものなのだろうか。
「あはは、冗談だよ。ちょっとからかっただけなのにすぐ慌てる。そんなんじゃこの先やっていけないよ」
「もう! 咲希ちゃんったら」
私はそっぽを向き、拗ねた素振りをしてみせた。
「わわっ、ごめん」
彼女は私の機嫌をなおそうと、横合いから顔を覗きこんでくる、それも申し訳なさそうに。愛しい人が私の意のままに行動しているようにみえて、充実した気持ちになった。
ちらりと彼女の方へ視線を向けると、目があった。そして彼女は微笑んだ。
ああああああああ!
抱きしめたい、抱きしめたい、抱きしめたい、抱きしめたい!
コテンパに骨が折れるまで抱きしめたい。彼女の骨が折れてはかわいそうだから、折れた骨と自分の骨を交換したい。
自分でも何を考えているのか分からない!
ただ行き場をなくした激情だけがあった。
「仕方ないな。許してあげるよ」
と私は気取ってこたえた。
「うん。ありがとう!」
彼女は私の左手を両手で握った。
いきなり予想していなかった行動をされ、私はドギマギしてしまった。手のひらの暖かさが伝わってくる。
きっとまた私の頬は紅潮していただろう。
「どうしたの?」
今度こそ彼女は、私の頬の紅みに気づいたようだ。
疑問符を浮かべた顔で近づいてくる。
「な、なんでもない!」
「でも、ほっぺ紅いよ? 熱でもあるの?」
「大丈夫だから!」
彼女の左手が私のおでこへすぅと伸びてくる。
今触られたらまずい。自分でもどうなってしまうか分からない。これ以上紅くなったら、頭が破裂してしまいそう。
細くてきれいな指が段々と迫ってくる。
逃げようにも左手を握られているので逃げられない。絶体絶命。
だが、彼女の手がおでこに触れることはなかった。
予鈴が鳴ったのだ。
「あっ」
と言って彼女は握っていた手を放した。
少し残念に思う。
いいや! 思わない。なにが残念なものか! 命が助かったのだ。一安心。
「そろそろ戻ろっか」
「そうだね。授業始まっちゃったら困るし、急いで戻ろう」
「優雨は真面目だなぁ。少しくらい遅れても平気だよ」
「ダメだよ。時間はきっちり守らないと」
「わざと遅れて行ってみない?」
「咲希ちゃん!」
「はいはい」
その逃避を思わせる提案に、ほんの少しの魅力を感じつつも、私は彼女の背を押してトイレから出た。そして本鈴が鳴る前に教室へ戻っていった。