三、テニス部部長の答え
ぎい、と重い玄関扉がきしむ。両手でそれを支えながら、ゆずきは空を見上げた。
雪は止んでいた。
「悪いな」
「ううん、全然」
日直の幸田に付き合って、ゆずきもごみ捨てに来ていた。
話は終わらないけれど、部活にあんまり遅れるわけにはいかない。だから手伝いながら話すことにしたのだ。
ごみの袋を集積所に投げ入れた幸田は、スロープの手すりに積もっていた雪をすくった。
それを両手でぎゅっと握って、ぽん、と上へ放る。頭上まで上がった雪玉は、またまっすぐに幸田の手のひらに収まった。
「…お前は覚えてないかもしれないけど、夏前さぁ」
話し出した幸田は、また放ってはキャッチしなから、その白い玉を見つめている。
「あの頃、かなりへこんでたんだ、俺。部長になりたてで、一年だけじゃなくタメのやつらもちぐはぐで、本当、毎日六限になると腹が痛かった。なんとかしなくちゃと思ってむきになって注意したり、メニュー変えたり、他の面でも手本にならなきゃって気張ったりするんだけど、やればやるほどひかれていく感じ」
そんなことがあったなんて、ゆずきは知らなかった。幸田といったら、クラスでもいつもお調子者で、先生に馬鹿な質問をしてみんなを笑わせたり、男子の輪の中で大笑いしていたりする姿しか浮かばない。
「で、そんなとき、体育で足くじいたんだ」
「ああ…」
そのことは覚えていた。松葉杖をついていて、骨折かと思う怪我だったから。
「馬鹿みたいだと思った。玉出しひとつろくにできないしさ。張り切った結果だと思うと、もう本当に自分が嫌だった。上手くいってないときだったから、部活のやつらはここぞとばかり陰口を叩いたし。それ、放課後教室で偶然聞いちゃってさ。あー、もう無理だって思ったんだよ。もう俺頑張れないって」
ゆずきは驚いた。まるで、自分みたいだと。
なにもかもがうまくいかないところといい、回りの言葉に動揺してしまうところといい、それでは幸田ではなくてゆずきのことだ。
「そのとき、偶然そこに残ってた広瀬が、そいつらに言ったんだよ。自分より努力している人間を笑うのは、違うと思うって」
幸田の記憶の中の自分の名前にどきんとする。
「びっくりした。それまで広瀬ってどっちかっていうとおとなしいタイブだと思ってたし、仲良くもない男子の雑談に口を挟むなんて、思わなかったから。それに、ろくに喋ったこともなかったし」
うっすらとしか覚えていないことについて感想を言われるのは、なんだかむずがゆい。ゆずきは、いたたまれなくなって口を挟んだ。
「おとなしくないよ、私」
「うん、もう知ってる。だってその後話しかけてすっごい邪険にされたし」
ごめんと言って、赤面する。
「や、それはいいんだ、俺は結構楽しんでたし。だから、なんつうか、むしろ今日のあれは、グサッと来た」
『あれ』が何を指すのかは明白で、ゆずきはまたしても幸田の顔を見られなくなった。
「ごめん、本当に。顔見たくないとか、ないから」
「ふぅん?じゃ、顔上げたら」
これは許可ではなく、なかば命令だろう。
気合いを込めて動かすと、首からぎぎぎと音がする気がした。
ようやく見上げた幸田の目は、まっすぐにゆずきを見ていた。
久々に他意なく見たその顔は、顎のラインが引き締まって、バランスよく収まった目鼻が涼しげだ。黒々した瞳に自分を映していると思うと、急にどぎまぎして──ある記憶が甦った。
白いボールを投げ上げては、受け止める。
コンクリートの階段に腰かけて、一心に見つめる先はそのボールだけ。
杖をつきながらも部活に出るなんて大変だなと思って、ふと目に止めた。そして、見入った。その横顔は思い詰めて見えた。けれど、凛々しいとも思った。
だからだ。だから、自分はその後陰口を聞き流せずに柄にもなく口を挟んだのだった。
「…やっぱり、幸田は、最初っからちゃんと部長だったよ」
格好よかったなんて、口が裂けても言える気がしない。せいぜい顔を合わせて言えるのはこのくらい。
それでも、珍しい相手からの誉め言葉に、幸田の切れ長の目が見開かれる。それから、探るように顔をのぞきこみながら、口を開く。
「全然。…でもそう見えてるなら、見栄張ったかいがあるわ。あれからずっと俺、広瀬に頑張ってるって言われて恥ずかしくないようにしとこうと思ってただけだし」
「…そういうのは、見栄って言わないし」
ついつい言い返してしまう。
見下ろしてくる瞳に微かに期待の色が潜んでいる、そのことに動揺して、口調はぶっきらぼうになった。
なんとも可愛くない。謝りに来たくせに、と自分でも思う。けれど、ころっと態度なんて変えられるわけがない。
「相変わらず…」
「な、何よ」
幸田は、ちょっと半目になったが、すぐににっと笑った。
「いや。まあいいけど。とにかく、あのとき投げ出さずにすんだおかげで、最近は楽しいよ。だからさ、俺、今度は広瀬になにかしてやりたかったんだよ」
失敗したけど、と笑う。
「私?」
「そう。変だと思うかもしれないけど。勝手にそう思ってた」
──ああ、そうか。それは、好きとか嫌いとか、そういうものじゃなくて、恩を返すという…
少しほっとしたようで、半面残念なようなよく分からない気分だ。それをかきけすように、片手を胸の前で振る。
「そんなの、恩を感じてもらうようなことじゃないよ」
「恩って。俺鶴みたいに思われてない?まあ、広瀬がそれで落ち着くんなら、避けられるよりいいわ」
幸田はくっくと笑って雪玉を遠くへ投げた。
「じゃあ俺、部活行くわ」
「うん」
「お前も来いよ?俺の勇姿見に」
「ひゃっ?!」
ぽん、と頭にのせられた手が冷たくて、一瞬反応が遅れた。
言葉の意味に気付いたときには、遅い。
玄関を開けっぱなしで走り去っていく後ろ姿がもう小さい。
──勇姿を見せたいって、それは鶴の恩返しとは違わないか…
遠ざかる足音とは反対に、徐々に大きくなる音がある。それが自分の胸の鼓動だと気付いて、ゆずきは顔を真っ赤にした。
中学生の主人公は初めて挑戦しましたが、とても楽しんで書けました。お付き合いいただいてありがとうございました。