驕らず、飾らず、偽らず
殺し屋くノ一がトイレに行ったすぐ、図ったように入学式が終わった。まさか予定を変更して少女が限界になるのを待っていたでござるか? 母上ならやりかねないでござる。
保護者たちが次々に二階から一階に移動を始めた。飛び下りられる者は全身のバネをうまく使い衝撃を和らげている。飛び下りられない者は自前の鉤縄を使い、落下速度を縄を掴む事で抑えて着地をしていく。それもできない者は階段の方へ向かって進む。
遮光カーテンが開かれ、会場が一気に明るくなると、それまで見えていなかった全容が明らかになった。
「どうしてピンク色の忍び装束の者しかいないのでござるか?」
すぐそばに下りてきた母上に質問をする。
近所で開業している忍者道場に通う子は半々ぐらい、いや、むしろ男の子の方が多かった。
学校になってもそれは変わらないはずでござる。
「ここは実戦的な忍術を学ぶ場ですからね。仕事は女性の方がありとあらゆる場所に潜入できることから、国としてもくノ一の方が需要があるんですよ」
「では、拙者はどうして……」
「第三〇代服部半蔵を襲名するためには卒業する事が最低条件なのよ。古い習わしでごめんね」
母上は心から拙者に謝る。母上が古い習わしを変えようと努力してくれていた事は知っている。それでも二九代続いた家柄はそう簡単には変わらない。
きっとそれは拙者の代でも同じでござろう。
単純に忍術を使う事ができれば誰もが忍者と名乗れるわけではない。正式な審査を経て、技能と知識を兼ね備えた者だけが忍者と呼ばれる存在になる。
その正式な審査とは……。つまり、忍者学校の卒業のこと。世襲という制度さえなければ、拙者も他の男忍者と同様にここへは来ずに済んだのかも知れぬ。
「あなたは恒光と私の子だからきっと大丈夫よ」
頭に手を置いて諭す母上は体術のスペシャリストだ。
舗装された平らな道路を本気で走れば、たとえ車でも追い付く事ができる。
『忍法:韋駄天の術』
それ以外にも素手で車の扉に穴を開けられる。
『自己流忍法:硬化の術』
それに比べて拙者は周りの人より『鈍臭い』とよく言われる。
一般人に比べれば運動能力は高いけど、この場合の比較対象は同世代の忍者でござる。
あなたはできる。あなたはできる。っと子供の頃から母上によく言われ続けてきた。
「恒光もあなたと同じで体術の才能はなかったの。でもね、遁術の方は天才だったわ」
遁術とは、『火遁』・『水遁』・『土遁』・『風遁』・『木遁』などである。
「遁術は初めの一回だけ印を結べられれば、あとは必要ないでござるよ……」
「そう、遁術も忍法と同じね」
一度体得できれば、心の中で念じるだけ。
「でもね。いくら印を結んでも才能がない人には遁術は発動できないのよ? 忍法は努力賞の塊だけど、遁術は才能の塊なの。あなたはどちらに似たのかな?」
「どちらにも……似てないでござる……」
「日影には遁術の才能があると思うんだけどな。どうして練習しないかな……。あの火事騒ぎが……。おっと、教室に移動しましょう。忍者たるもの」
「待たせちゃダメでござる」
母上はマスクの上からでもわかるぐらい微笑んで見せた。大輪の花が咲くような……。
遁術でござるか……。
「右から行く? 左から行く?」
体育館に行くためのルートは何通りも存在しており、場所毎に忍者の修業ができるようになっている。
「せっかくなので、軋む床の極意を……」
「日影は、授業で習う気がないのかな?」
母上は困ったような、教えを頼まれて嬉しいような顔をした。
そして移動した先には拙者が歩くと悲鳴を上げる床。
「極意はね。床をよく見るのよ」
「見るでござるか?」
「足の運び方は、家でもやったはずよ」
「抜き足、差し足、忍び足でござるな……」
つま先でゆっくり歩いてみせる。白線の内側でも鳴るんじゃないかとビクビクしている拙者に母上は……。
「あははははっ」
「真面目にやってるのに、笑うとは失礼でござるよ!」
「家で修業すると嫌がるのに、学校なら真面目に取り組めるのね。もっと早く放り込んでおくべきだったわ」
「…………」
それは笑った謝罪ではないでござるよ……。
ジーッ。
「無言で訴える癖をやめなさい。文句があるなら口で言う!」
「さっきの」
「あ、親に口答えしちゃダメよ?」
なっ! 理不尽でござる!
ジーッ。
「ゴホンッ」
母上が咳払いを一つ。気持ちを『切り替えろ』の合図でござる。
「軋む床はね。構造上、軋む理由があるんだから、軋む場所が決まってるのよ。それをどうやって見極めるかは授業でやるわ。お母さんと同じところを付いて来なさい」
「はい、でござる」
右足、左足、右足、左足っとつま先だけで普通に歩いている。
もちろん音はせず、真っ直ぐに……。
今思えば、主たちは多少ではあるが、左右に肩幅程度は動きながら歩いていた。あれは、鳴らないポイントの見極めが甘いからでござろうか?
拙者も母上が歩いたポイントを歩く。今の拙者には必殺忍法がある。
『自己流忍法:脳内再生の術』
あ、再生する物を間違えた。これは殺し屋くノ一が持ち物チェックをされている時の映像だったでござる。
軋む床を歩く映像を再生させながら、母上の動きをトレースする。
二歩までは成功したが、三歩目で音が鳴った。
「あ、おしい。二ミリ後ろね」
そんなにギリギリを歩いていたでござるか?
主たち……。あなた方の完成度で拙者も満足する事に決めたでござるよ……。
挫けずに慎重に続きを歩く。
『忍法:軋む床歩きの術』体得。
あ、一回までは許されるのか、忍法を覚える事ができたでござる。
振り返ると、軋む床の上に赤色のマーカーが見えるようになった。あの色を踏むと鳴るのでござろう。九割以上が鳴るゾーンでござる。
「さ、早く教室に行くわよ」
「はい、でござる」
二人で無言で教室に向かう。
「その……母上」
「なに?」
「教えて頂き、かたじけないでござる」
「どういたしまして。一つ聞いてもいいかしら?」
「何でござろう?」
「日影がまだ園児の時に火事騒ぎがあったわよね?」
その話でござるか……。
拙者は歩いていた歩みを止める。
「どうしてもあの時の事を話したくない?」
母上は俯いた拙者の顔を覗き込んできた。
その目はすでに真実に行き着いている目でござる。
「あれは拙者が火遁の術で家を半焼させたでござるよ……」
父上が見守る中、全ての遁術の印を完成させた後のこと。子供の火遊びというレベルでは到底言い表せない火の海が子供の手から噴き出した。
火は瞬く間に庭を通過して、家を飲み込んだ。父上は水遁の術で必死に消火に当たるも……。火の勢いが強すぎて、家を半壊させて延焼の広がりを抑えたでござる。
父上以外に目撃者がいなかったため、火事を起こしたのは父上という事になっていた。以来拙者は遁術を封印したでござる。
「やっぱりね……。日影は歴代最強忍者『第二九代服部半蔵恒光』を超えていたか……。園児に負けて悔しがる恒光の顔を私も見たかったな……」
「どうせ、帰ってから父上に話すのでござろう?」
「日影がこれまで隠し通してきた男同士の約束を私がどうしてバラせましょうか? あはははは。天狗になったら、心の中で笑ってやるわ」
嫌な性格をしているでござるな……。
スッとさっきまでの笑みを隠して、真剣な顔になった。
「ここでは体術を学びなさい」
「はい、でござる」
「驕らず、飾らず、偽らず。相手の気持ちがわかる子になりなさい」
「はい、でござる」
「お母さんは先に帰るわ。あとで……必要な物は届けさせるわね」
母上は軽やかに、無音で玄関に向かって廊下を走っていった。
「廊下は走ったらダメでござるよ……」
教室に着くと、保護者の方は教室の後方にズラリと並んでおり、数名ではあるが、黒い忍び装束の者がいた。
生徒側はピンク色一色。
開け放たれた教室に入る――あ、細い線が足の高さに張ってあるでござる。
教室に入るだけでも気を使うとは、恐ろしすぎる。四六時中油断が出来ぬでござるな。
拙者が足元の線を回避すると、担任の先生が声をかけてきた。
「今日は入学式だから、怪我がないように、柔らかい糸を使ったんだぞ? 今後はピアノ線やワイヤーになるから注意が必要なんだぞ?」
ピアノ線やワイヤーって……きっと、卒業前に死ぬでござるな……。
それにしてもこの先生、超が付くほど、アニメ声でソプラノボイスでござる。
「ちなみに初日に回避できたのは、三〇人中三人だけだぞ?」
拙者以外にも二人も気が付いたでござるか……。
教室の中央に空いている席がある。どこに座ろうが、周りはくノ一でござる。ここまで来ると開き直るしかないで、ござ……。
「あっ!」
拙者は慌てて席から離れる。
天井から椅子のお尻の位置に向かって水玉が水鉄砲のように発射された。
「よく、避けたんだぞ? 皆さん、日影君に拍手だぞ?」
先生が濡れた椅子を拭くためのタオルを渡しながら生徒に呼びかけた。
そう言われると、濡れた椅子の後片付けも含めて怒れないでござる。
避けられなかったら脳天から水を被り、避けると椅子が水を被る。どちらにしろ拭かされるとは、悪質な罠でござるな……。