好きなことでも仕事になったら楽しいことばかりではない
「おはようございます! 鵠沼鯨と申します! 本日はよろしくお願いいたします!」
「よろちくびー! 駅長まだ来てないからヨー! 助役のいっちゃん今だけ駅長代理! そんな資格はないけどヨー!」
社員、しかも管理職と思しき赤いトランクス姿の中年男性に戸惑いつつ、誠心誠意あいさつをしたが、大丈夫だろうかこの会社。西暦2007年、助役のいっちゃんさんは流行りのラップを取り入れているとは理解できた。
国内最大手で世界屈指の鉄道会社、日本総合鉄道。その職場に今、僕はいる。職場体験学習だけど。
「来客あるときはパンイチで歩き回るなって、私が配属されたとき駅長に怒られてたじゃん」
「わりぃわりぃ、人が来るのすっかり忘れてた」
「はぁ。これだから元男職場は……」
「なに言ってるの。今だって男職場じゃないの」
「私、私の存在忘れてる」
「あぁ、お前はもういいの。確かに駅長には女性が配属されるからみっともない姿は晒すなって言われてたけど、うっかりして初対面のときもこうだったし、みもりんだって冷めた目はしてたけど顔真っ赤にしたりキャー! とか叫んだりしなかったし現時点でコンプライアンス通報はされてない」
「いま通報しようか」
「やめて! 出勤停止かクビになっちゃう!」
日本総合鉄道には、役員および社員等が法令上または倫理上好ましくない行為に及んだ場合、監査室に通報するための関係者用電話番号があり、正社員でも契約社員でも匿名で利用できるようになっているらしい。
「鯨、入社してもこんなオヤジになっちゃだめだよ。うちの駅がまったりしてるだけで他所でこんなことしたらマジでクビになっちゃうからね」
はははーと苦笑しつつ、僕は「じゃあここで着替えてちょ」といっちゃんこと小出助役に休憩室の隣にある更衣室へ通され、貸し出された制服に着替える。
物ごごろついたときから知っている会社のロゴマーク。
鉄道会社の制服に変わりはないのに、あまり馴染みのなかった地下鉄会社の制服に袖を通すときよりずっと胸がざわめいて、気持ちが高揚する。
ボタンを掛け間違えてないかな、ネクタイはちゃんと締められてるかなとか気にしながら、ついついロゴマークに視線が行ってしまう。
服を纏ったら更衣室の隅にある洗面台の鏡で何度も服装を確認して、久里浜さんや小出助役にだらしない点を指摘されないかドキドキしながら休憩室に戻ると、小出助役は革張りソファーに大の字でもたれかかり、口を開けて眠っていた。久里浜さん曰く、小出助役は勤務終了時刻だが、帰宅してもカカア殿下で居場所がないから、パチンコ店の開店時間までは職場でくつろいでいるのだとか。
「服装整正、時計精整オーライ! 鯨の服装も大丈夫だね! 時計は合わせた?」
言って、久里浜さんは腕時計を嵌めた左手を僕の左手に寄せて時刻を確認する。女性用シャンプーの香りがして少しときめいたけど、僕には咲月さんがいる。
休憩室を出て先ほど上って来た薄暗い階段を下る。
「ほら、これ見てごらん? これを見ればどの列車がどこを走ってるか一目瞭然なんだ」
出札窓口の裏手の荷台に設置されたノートPCで運行状況を確認。地下鉄の駅でも同様の機能を持ったソフトを使用していた。画面に向かって前かがみになり、左手で垂れ下がる髪を流す久里浜さんに色気を感じた。
「あちゃ~、上下線ともちょっと遅れ気味だなぁ~」
遅延を憂いて気怠そうに放送用の拡声器や合図灯を持って鉄製の重い扉を開ける久里浜さん。
これから久里浜さんの案内で先ほど降り立った本線北行5・6番線ホームを巡回する予定だが、遅延発生ということは、また地下鉄みたいにバタバタするのだろうか。
鉄道の仕事は常に時間のプレッシャーとの闘いで、決して楽しいばかりではないと、ひしひしと感じてきた。
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