◇事前教育は重要です◇前編
「なぜ副師長さまが、師長におなりにならないのですかっ!」
強い口調で言いながら、困り顔で目の前に立つ男性に詰め寄る小柄な青年。
この青年の名は、アルフォンソ・ベルジュ。彼は貴族でありながら、魔力を持って生まれてきた。
魔力は血脈による遺伝はない。貴賤を問わずに生まれてくる。
だが貴族だからといって、平民の両親をもつ魔術師を「この、平民風情が!」と嘲ることは決して出来ない。
なぜなら個人により魔力の差はあるものの、その力は絶大で『普通の者』には到底太刀打ち出来なかったからである。
さらに言えば、魔術師が『いつ・どこで・何人』生まれるか全くわかっていない。
黙っていても数の増え続ける貴族などよりも、よほど『選ばれた者たち』なのである。
それに対して血脈が全てと言ってもいい貴族。個人の能力などはさほど重要でなく、生まれる家柄、順番、性別によって全てが決まる。
無理難題でさえも、金と権力と家名で強引に推し進めることに慣れている彼らにとって、魔術師は正に水と油のように相容れぬ存在。唯一思い通りにならないことでもあった。
貴族にとってそのように都合の悪いものは、本来なら即刻排除する彼らであったが、さすがに魔術師を敵に回すことだけは一度もなかった。
何も彼らの持つ魔力が恐ろしいだけではない。魔術師に手を出すと、己の立場も危うくなるためだった。
それを説明するには、彼らの住むグラン王国の特徴を理解しなければならない。
国が興ったのは約五百年前。それほど歴史のある国ではない。にもかかわらず現在では大陸屈指の軍事強国として名を轟かせている。
その当時、大陸に存在した十数国が揃って、『我が国こそが大陸を総べる覇者となってみせる』と宣言し、各地で小競り合いの起こる戦乱ともいえる世であった。
そんな中、北の小さな新興国であったグラン王国。鄙びた地域の弱小国家など、周辺の国に直ぐに滅ぼされるだろうと誰も気に留めていなかった。
だが周囲の思惑を裏切るように、隣接する国を次々と併呑していく。
片田舎の弱小国にすぎなかったはずのグラン王国は、あっという間に大陸で覇を争う一大勢力にまで成長を遂げていた。
というのも初代グラン国王は、自身に『魔力』が備わっていた。その力の有効性を誰よりも知っていた初代国王は、同じような力を持つ者を探すことに全霊を注いだ。
その結果、それまで異能のせいで隠れるように暮らしていた魔術師の多くが、『魔術師団』として国に登用された。
そして同時に知ることとなった。
魔術の素養を持つ者は、グラン王国内にしか存在していないという事実をーー
ーー魔力という他国にない圧倒的な力。
グラン王国の強さの所以はまさにこれであった。
つまり魔術師がいなくなることは、そのままグラン王国の弱体化に繋がる。さんざん煮え湯を飲まされた他国が、貴族と魔術師との諍いで混乱に陥った隙を見逃すはずがない。
そうなれば大国の貴族という身分にあぐらをかいて、やりたい放題であった貴族自身も危うい。そのため貴族は魔術師の存在を快く思っていなくても、行動には起こさないのであった。
--そんな稀有な『魔力』が、我が子に備わっていたら?
子爵夫妻が我が子の能力を知るきっかけは些細なことだった。
雪の降る夜。寒さのためか不機嫌な様子のアルフォンソが一際大きく泣き叫ぶ。すると、とても冬とは思えない暖かな風が閉め切られたはずの室内を通り抜けた。驚く乳母をよそに、その風は上質な絹のカーテンをいたずらに揺らす。
この光景に驚いた乳母は、恐る恐る窓に近寄る。そして窓が閉まっていることを確認すると、慌てて子爵夫妻を呼びに行った。彼らが部屋に着いた時には、ご機嫌でキャッキャッと笑うアルフォンソに呼応するかのように、暖炉の炎が大きく、小さく、踊るように揺らめていたのだった。
その後疲れたのだろう。ゆりかごでスヤスヤと眠る、小さな我が子の力に気付いた両親――ベルジュ子爵夫妻は、「家の為だけにこの魔力を使いたい」と、息子が二十八歳になる先日までその事実を隠匿していた。
出来ることなら、永遠に隠し通したかったであろう。
だが、バレないはずがない。
貴族なんてものは、友達面をしていても内心は足の引っ張り合い。少しでも自分の立場を良くしようと、他人を陥れることばかりを考えている。
当然ベルジュ子爵家の繁栄を快く思わない者たちによって秘密を暴かれ、ついに城に密告されてしまったのであった。
彼らの屋敷に調査が入った結果、アルフォンソは確かに魔力を持っていると認められ、正式に魔術師団の一員として城勤めをすることになったのだった。
これまでは貴族として、その嫡子として、さらには魔力を持つ選ばれた者として、両親から存分に甘やかされてきたアルフォンソ。そのせいだろうか、年齢の割にはどうにも精神年齢が幼いようである。
魔術師は少なくとも十代で城に来る者がほとんどだ。
--魔力の暴走を恐れた周囲の者による勧め。
--周りとは何か違う自分自身に不安を感じ、城の門を叩く者。
彼らは何もいきなり魔術師として働くわけではない。城内にある外校で貴族にまじり通常の勉強をしたあと、魔術師専門の外校で魔術の教育を受ける。その後、ようやく成人を過ぎる辺りから魔術師団員として城に勤めることになるのであった。
アルフォンソのように、三十歳近くになってから城の門を叩くものは非常に珍しい。
とはいえ、自宅で家庭教師を雇っていたので一般教養は問題ない。魔術の勉強はさすがに独学のようだが、本人が魔術師の外校に通うことを強く拒否をしたため、教科書を渡し、実技テストを定期的に行うという条件で、アラサー男がピチピチのティーンエイジャーに交じって机を並べるという事態は回避することとなった。
だがその反面、予備知識なしで魔術師団に勤務することになってしまったのである。
すでに成人し人格形成期を終えてしまった彼は、かなり偏った価値観のまま城に放り込まれてしまった。
事実、今も上司……といってもただの上司ではない。魔術師団の副師団長--通称『副師長』いう魔術師たちから見れば、雲の上の人物にも等しい存在に、食ってかかる真っ最中であった。
「毎日仕事をされているのは副師長さまではないですか! 私は城に来てまだひと月程度ですが、その間一度も魔術師団長さまとやらをお見かけしておりません!」
自身の言い分にさらにヒートアップしたアルフォンソ。頭から湯気がでそうな程真っ赤な顔で、自分よりも二十センチは背の高い副師長に詰め寄る。副師長は「おや、おや」と困惑気味であるものの、対照的に涼し気な表情のままである。
「アルフォンソ、だったかな? 君はまだ師団に入って間もないので知らないのだと思うが、師長さまは素晴らしいお方なんだよ。あの方以外が魔術師長の名を騙るなど……。僕ごときが師長さまに代わってその地位に就くなどと、畏れ多いね」
穏やかに微笑みながら言う副師長。見た目は二十代半ば、くるんくるんと癖のある赤みの強い茶色の髪に焦げ茶色の瞳を持つ、温厚そうな男性である。
異能のためか、人間嫌いで変わり者が多い魔術師の中において、彼は唯一といっていいまともな人物--性格は穏やかで礼儀正しく、人付き合いも出来たのである。その地位に相応しい魔力も有しており、次期魔術師長として一目置かれている人物であった。
未だ師長を見たことのない、魔術師団在籍1ヶ月のアルフォンソが、こういった反応を見せても不思議ではない。
「しかしっ」
「いいかい? 僕の力などあの方の足下にも及ばない。だからこれでいいんだ。もうこれ以上この話はしないでくれるかい?」
一見優しく、だが決して逆らうことを許さない雰囲気でそう告げられたアルフォンソ。まだまだ言い足りないのだろう。不満げに口を尖らしながらも、しぶしぶといった体で頷いた。
小さく「はい」と返事をした彼に、副師長は満足気に微笑み掛けると、「僕はまだ仕事が残っているので、君はもう終わったのなら部屋に戻りなさい」と頭をひとなでして執務室に歩き去る。
遠ざかる副師長の背中。ひと月まえに比べて、また少し疲労の色が濃くなった気のする後姿をじっと見つめ、「くそっ! どうしてなんだ」と吐き捨てるアルフォンソなのであった。
「どうした? アル。口を尖らせて」
「……セルジュ・アルノー」
「お前なあ……先輩に向かって呼び捨てとはいい度胸だ」
アルフォンソの背後から、のっそりと近づいてきた大男。二メートルを少し越えた体躯に隆々とした筋肉の持ち主で、見るからに強そうな男である。
セルジュはヒクリと口元を歪めたあと、その大きな身体から繰り出した渾身の一撃--ゲンコツをアルフォンソの脳天に躊躇なく叩き込む。
『ガッ』とも『ゴッ』とも言えぬ鈍い音と同時に、アルフォンソの潰れた蛙のような声が静かな廊下に響きわたった。
「ぐえっ!」
「大げさなんだよ。それよりもアル、お前目上には『さん』を付けろといつも言っているだろうが。なんなら『先輩』でもいいぞ。何しろ全員がお前より職場では先輩だからな」
魔術師団にとって、アルフォンソは七年ぶりの新人だった。
通常よりも年を取っているとはいえ、百六十センチにみたない小柄な身体に、どう見ても子供にしか見えない童顔が幸いして、一部の魔術師から非常に可愛がられていた。セルジュもその物好きの一人で、事あるごとに彼を構い倒している。
ニヤリと笑いながらからかうように言えば、負けじとアルフォンソも口を開く。
「セルジュ、先輩。そんな笑い方してたら隠している性格の悪さが透けてますよ」
「あ? 別に隠してねえよ。それにお前ら貴族の無理やりはりつけた笑いよか、よっぽど可愛いだろうが」
「可愛いって……。その無駄にデカイ身体でそんなタチの悪い顔されたら、冬眠前の熊に出くわしたとしか思えません」
「おー、言ってくれるねえ」
「そもそも、あんたにそんな筋肉必要ないでしょう。なに毎日鍛えてるんですか」
「こらこら、また呼び方が戻ってるぞ。あんたじゃなくてセルジュ先輩、だろ? それはそうと筋トレは趣味みたいなもんなんだから、ほっとけよ。俺だって小さいころは騎士になるのが夢だったんだよ! 剣と剣のぶつかり合い。血肉湧き踊る戦場!」
「……理解できませんね。何を好き好んで戦場に行きたがるのか。後方支援で地位も高い魔術師の何が不満なのか全くわかりません」
「全く、これだから貴族の坊っちゃんは。いいか、男たるものだな、」
ガシガシと金色の短い髪を掻き毟りながら、セルジュが『騎士の崇高さ、戦闘の面白さ』を熱く語りだす。
アルフォンソは内心、『あー失敗した。話長いし、近いし』と思いながらも、『仕方ない、付き合うか。いつもの事だ』と腹を括ったそのとき。一人の女性が走ってくるのが見えた。
アルフォンソはその女性が目の前で熱弁を繰り広げる暑苦しい熊男――セルジュの同僚であるとわかった瞬間、『助かった、これでこの鬱陶しい話を聞かされずにすむ』と胸をなでおろしたのだった。
「セルジュ!」
女性が少し急いだ様子で熊……もといセルジュに駆け寄り声をかけた。これからさらに熱く語ろうとしていたセルジュだが、話の腰を折られたにもかかわらず、気分を害した様子もなくのんびりと振り返る。
「ん? ユニスか。どうした?」
「救護隊長さまが呼んでいるわ」
「隊長が?」
「私もまだ詳しくは聞かされてないんだけど、少し隊を編成しなおしたいことがあるとか。師長さまが城を出られたとはいえ、上のお子様もそろそろ外校に通われるお年のはず。師長さまがお子様と城にいらっしゃる事もあるでしょうし……また何があるかわからないから対策を立てておきたいんですって」
「外校……。そういえば、もう師長さまと奥方さまが城を出られて五年も経つのか」
「早いものね」
「そういや奥方さまが、一年位前だったかな? 魔術師宿舎にお子様を連れてお立ち寄りになられたな。……きっと外校の様子見に来られていたんだな。そうか、あの坊ちゃんも外校に通う年齢になったか」
「そうよ。……セルジュ、それがどういうことかわかる?」
「んあ? いや、坊ちゃんも大きくなったなあ、と……」
そう呟く男に、ユニスは「呆れた」と大きくため息を吐く。
「外校は貴族の子弟が学ぶための施設なのよ。彼らがどれだけ我儘に育てられているかわかっているでしょう? そんな中、万が一にも師長さまのお子様になんかあってみなさい。どうなると思う?」
「……まさか、子供のケンカに親が出てこないだろう」
「だといいけど……」
「…………」
お互い最悪の想像をしたのだろう。目が泳ぎ視線が彷徨う。気まずい沈黙のあと、「コホン」とわざとらしい咳払いをしたユニスが話を続ける。
「救護隊長さまは、五年前の再来を恐れていらっしゃるわ」
「五年前?」
ユニスの言葉に、「はて?」といった様子で首を傾げるセルジュ。
「ほら、胃の痛みを訴える患者が溢れてしまって、救護隊が上手く機能できなかったことがあったじゃない」
「ああ……あれか。あのときは、伝染病みたいな有様だったな」
思い出したと顎に手を添え、苦笑いを浮かべながら頷くセルジュ。
「師長さまの関係者が城内にいらっしゃるとなれば、この五年で平穏に慣れた貴族の胃も穏やかではないでしょうね。特に外校に通っている年齢の子供を持つ親は……」
「なるほどな。で今回の再編成につながるわけか」
「そういうこと」
セルジュはユニスのその言葉に「わかった」と頷くと、アルフォンソに「聞いていたとおりだ、すまないな。話の途中だが仕事が入った。続きはまた今度な」そう言い残すと乱暴にアルフォンソの頭をひと撫でし、ユニスと二人その場を足早に後にした。
一人残されたアルフォンソと言えば、目の前で交わされた話の半分以上が理解できない。隠された出生のため、城に出仕することなく自宅に篭りがちであった彼は、世間に疎く、五年前に城を襲ったという伝染病の噂も知らなかった。
だが面倒事に口を挟む気にもなれず、走り去る熊とこの場を救ってくれた美女の背をぼんやりと見つめ「セルジュ……先輩、あの身体で『救護隊』なんだから本当宝の持ち腐れ、いや、タチの悪い冗談だよな」と笑いながら乱れた髪を直すのだった。
**
「ユカッ、ちょっと来てくれ!」
グラン王国の王都の外れにある城……のような個人邸宅。
この家の主の名はレイナード・ロゼフィン。噂の魔術師団長である。
一般兵の間で、その正体が『魔王か』『悪魔か』の二択で賭けの対象にされている。それほど冷酷無比と言われているレイナードにしては、想像し難い、随分と切羽詰った声であった。
「なんですか? 私今手が話せないんです」
階下から聞こえる妻の無情な返答に、「チッ」と舌打ちをすれば、一拍の間を置いて響きわたる大音響。
「びええええええっん」
「ま、待て、いや、違う、クロードお前にした訳ではないから、泣き止め」
「ぎゃあああああっん」
「…………」
「あー、師長さまやっぱりこうなっちゃうんですねえ」
のんびりとした声と共に扉に現れた結花は、母親を見つけ走りよってくるクロードを両手で迎え入れ抱き上げる。
今年の誕生日で五才となる二人の最愛の息子――クロード。幼くてもわかるレイナードに似た端正な顔立ち。ただ違うのは髪や瞳の色で、これらは結花に似て濃い色となった。性格は母親である結花の影響が強いため、「随分と良い子に育ったものだ」とレイナードを良く知る一部の者たちから非常に評価されていた。
そんなクロードだが、泣いたため目は真っ赤。可愛らしい顔は、鼻水と涙に塗れぐしゃぐしゃである。その顔をそっとハンカチで拭いながら「よしよし、びっくりしたねえ」とあやす結花の姿は、見た目こそ全く年を取っていないものの、立派に母親であった。
そんな二人を横目に見つつ、「はあ」と疲れた様子のため息を吐き出したレイナード。
皆の予想を裏切り、子煩悩な父親として育児に参加していたが、生来子供とは相容れぬ存在であったレイナード。何しろ元は『泣く子も黙る魔術師長』である。
何事においても協力的であるものの、育児に至っては不得手なようで、日に何度かはこうして子供を泣かせてしまうのであった。
そんな肩を落としたレイナードと、ようやく泣きやんだクロードを交互に愛おしげに見つめる結花。彼女は日本からの『迷い人』としてこちらの世界に現れた。当初こそ波乱に満ちた生活であったものの、現在はレイナードの妻となり、子をもうけて幸せに暮らしている。
「やっとリュシーが眠ったところなんですよ」
クスリと笑いながら、クロードの妹、先日生まれたばかりの娘が眠りに落ちたことを告げる結花。
「そうか、すまなかったな。うるさくして。疲れているだろう? お前も休むといい」
「いえ、こんな音ぐらいじゃ絶対に起きませんから大丈夫ですよ。それに私は平気です。メイドもいるし、育児係もいますから十分楽させてもらってます」
「そうか。しかし、これほど子育てが大変だとは思いもしなかったな。仕事をしていた時の方が楽だったな」
部屋の中にあるカウチソファーにドサリと座り込んだレイナードは、どこか無表情にそう呟く。
「大丈夫ですよ。あと数年もしたら、この日を懐かしむ日がきますから。あっという間ですよ」
クスクスと笑いながらレイナードを慰める。どうやら彼女には、夫の些細な機嫌の変化が読み取れるらしい。
「だといいのだがな」
「と、そろそろクロードも外校に行く時間ですね」
その言葉にチラリと時計を見たレイナードは、眉を顰めて「もうそんな時間か」と座ったばかりのソファーから立ち上がる。
「お仕事に戻られます?」
そう尋ねながら、結花は抱いていた息子を床に下ろす。
「ああ。少し立て込んだ内容の仕事が回ってきていてな」
「仕事も以前に比べると、随分と魔術師団の皆さんが請け持ってくれるようになりましたしね」
「ああ。俺もいつかはいなくなるからな。これまでの様に、全てを俺に頼ってばかりでは都合悪かろう」
「……そうですね」
少し伏せ目気味に、小さく頷く結花。そんな姿を見て口を開きかけたレイナードを遮るように、クロードが無邪気にしゃべりだす。
「おとうさん、おかあさん、僕がっこうに行ってきます」
先程まで泣いていたとは到底思えない笑顔で、そう声を掛けるクロード。
外校にはこの九月から通い始めたばかりで、まだ数日しか行ったことはない。それでも新しくできた友達や、いろいろと習う勉強が楽しくて仕方がないようだ。
「お利口さんね。遅刻しないようにしないとね」
「はいっ! 行ってきます」
「気を付けてな」
「はいっ……あの、おとうさん、さっきは泣いてごめんなさい」
部屋から飛び出そうとしたものの、クルリと振り返るとおずおずとレイナードに近寄るクロード。レイナードの黒い上着の裾を小さな手でキュッと引っ張ると、上目遣いで口をひらく。
子供の澄んだ瞳でジッと見つめられたレイナードは、小さくコホンと咳払いをしたあと「気にしていない。ほら、外校に遅れるぞ」と優しく頭を撫でる。
父親の返事に安心したクロードは、今度こそ部屋から勢い良く飛び出していく。部屋の外に控えていたメイドが二人に向かって一礼したあと、慌ててクロードの後を追いかけていくのだった。
部屋に残された二人。小さな、しかし家の中で一番元気なクロードがいなくなったことで、馴染みのある静寂が戻ってきた。
ようやくいつもの調子に戻ったレイナードが口を開く。先程言おうとしてクロードに遮られてしまった言葉だ。
「ユカ、まだ気にしているのか?」
「気にして、って程ではないんですが、……やっぱり師長さまの口から『そういった話』を聞くとどうしても後悔されていないだろうか、という気持ちになってしまうことがあります」
「俺にとってお前たち以上に大切なものなど存在しない。考えるまでもないだろう? だからそんないつまでも気に病むな」
そう言って結花に近づくと、焦げ茶色の髪を長い指で掬う。
「分かってはいるんですが……。師長さま、いつも城から届けられる厄介事に何だかんだ仰っていますが……、仕事、お好きでしょう?」
クルリと振り向いた結花。そのためレイナードの指からはスルリと手触りの良い絹のような髪がこぼれ落ちてしまう。
「長い間仕事漬けだったからな、もう日常の一部だな」
「第一線から退いてしまったこと、後悔してませんか?」
「退いた、と言っても仕事の場を城から自宅に移した程度だ。仕事量こそ半減したものの、魔術師長の職にある以上、全てを部下に任せる訳にはいかないのでな。あいつらに任せるには、少々厄介な仕事ばかりを請け負うことになってしまったな」
そう言ってクツリと喉の奥で笑ったレイナード。確かに結婚以前は、現在の仕事に加えて細々とした全てに目を通していた。魔術師たちも、レイナードが城にいることで甘えていたのだろう。些細な問題でさえ、いちいち彼の指示を求めていた。
しかしレイナードが城を出た今、そんなことをしていてはとてもじゃないが仕事が終わらない。
そのため、副師長に一部の権限を委譲していた。おかげで仕事量は随分とスッキリしたが、その分レイナードに回されてくる仕事のほとんどが『厄介事』となってしまったのであった。
結花はレイナードの言葉に、何とも言えずに黙り込んでしまう。
「家庭を持つ男としては、仕事量が丁度いいと俺は思っているのだが……。お前は俺が以前のように仕事漬けで、昼夜を問わず執務室に籠っている方がいいのか?」
どこか冗談の様にそう口にしたレイナードだが、その瞳は笑っていない。ゆっくりと結花との距離を詰め、彼女の頬を優しく手で包み込む。
温かな大きな手に、自分の手をゆっくりと重ねた結花は、そのまま首を横に振る。
「ならば、この話はもういいな」
小さく耳元で囁いたレイナードは、返事を遮るように結花の唇を己のもので塞ぐのだった。