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所詮、急場しのぎは急場しのぎでしかないようだ。基礎体力を越えての回復はあり得ないし、ダーパ式を用いても取り戻される体力は百が八十になり六十に、と次第に目減りしていく。汗をかいた身体を一気に冷却されるのも不快極まりない。
僕は決心した。日本に帰ったらジョギングを始めよう。なんならルームランナーでもいい。知世に「ハムスターみたい」と笑われたって構うもんか。無事、帰り着くことができれば、の話だが。
「一昨日、あそこに落雷があった」
前方でアイダンの声がする。四十分を経過した辺りから僕は顔を上げるのもしんどくなり、ずっと足元だけを見て歩いていた。太い幹が縦に避けていた。疎らになった林冠を透かして射し込む夕焼けが光の縞模様を描き、色とりどりに煌めいてダンスを踊る光の妖精たちに魅了される。
うつくひい……。
残念ながら感動が疲労を上回ることはなかったが。
「ハープは、もうすぐそこだ。君のその荒い息では百ヤード向こうの警備にも気づかれそうだな。一息いれよう」
アイダンの提案は疲労困憊の僕にとって地獄で仏だったが、
「警備と言えば」僕は木の幹にもたれかかって言った。「正直に正面ゲートをくぐる侵入者なんかいないだろう? こうして森からの侵入がノーマークとは、ダーパも案外ぬけたところがあるね」
〔バカ〕
――バカとはなんだ、バカとは!
〔ヘリの音が近づいたり遠ざかったりしてたのを気づいてないのか〕
「えっ、ヘリだって!」
思わず声が出てしまう。アイダンは、眉をひそめることで〝声がデカいよ〟を伝えてきた
「あ……、申し訳ない」
「そう、このハープでは監視のため無人ヘリを飛ばしている」
へーえ、と言う前に僕の発声器官を使って2ちゃんねるが発言する。
「丸太小屋の大仰な機器は、無人ヘリの心臓部に侵入して画像データを書き換えるためのものか。待機させた女性ふたりが、そのスペシャリストって訳だな」
「鋭いな、そのとおりだ。君は通信工学でも学んでいたのかい?」
「あ、あはは……」
僕はスマートフォンの機能さえ使いこなせてなかった。
「ブレンダンには」と2ちゃんねる。「ひとの考えを読むことができるのか?」
アイダンは僕――正確には2ちゃんねる――の視線を追った。ブレンダンとホキイは身体的接触もなしで談笑していた。知世ですら苦労したのに――。
「ああ、あれか。ブレンダンは言語学者なんだ。認知、社会、心理など五つの学位を持っている」
また随分と若い学士様だなとは思ったが、脳が最大限に機能するのは二十歳がピークである、と『シリーズ脳科学大全』にあった。言い換えれば、二十歳を七年も過ぎてなにも成し遂げてない僕が、この先ひとかどの人物になる可能性は皆無ということだ。
「では君の得意分野は?」
「光学迷彩が僕の専門だ。お目にかけよう」
アイダンはにやりとして背中に垂らしていたフードを被る。眼のすぐ下までくるファスナーを閉めると、彼の身体はすーっと背景に溶け込んでいった。




