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ゲートが目前に迫ってもブレンダンは速度を落とさない。
「ハープはそこじゃなかったっけ?」
フェンスに取り付けられた『WARNING』の文字が車窓を流れ去っていく。
「正面ゲートを抜けるアクセスロードは全域で監視されているからね」
なるほど、社会の仕組みに倣えばなにごとにも裏道があるということか。いよいよ森は深くなり道幅は狭まっていく。ブレンダンが車を停めたのは正面ゲートを2キロメートル程行き過ぎた辺りだった。
「ここを……、行くのかい?」
森を縦断するのだとアイダンが言った。多分、モミの木の一種だろう、長身の彼等でさえ仰ぎ見るほどの針葉樹が繁茂するなかを一時間近く歩いて行くのだと。
マジっすか……。
「知世の聞き間違いかな? 確か散歩がてら、と言ってたような――」
「大丈夫だ、彼が道に迷ったことはない」
アイダンはネイティブの男性を指して言った。いや、そうじゃなくって……。
「陽が落ちてしまう前にハープにたどり着きたい。行こう!」
ブレンダンの声に、僕は渋々森に足を踏み入れる。手つかずの鬱蒼とした原生林は陽光の干渉を拒絶し、夜とはまた違った暗闇が森を支配していた。野趣溢れるどころの騒ぎではない。獣道のようなルートは、一度迷ったら二度と戻れない樹海のように感じられた。
同道するのはROHのふたりと道案内役のネイティブの男性、三十代半ばくらいに見える彼の名はホキイ。ナバホの言葉で『見捨てられた』とか『放棄された』という意味だとアイダンが教えてくれた。って、おいおい……。
「この森……、なんか変じゃないか?」
いいようのない不安感が僕にそんな問いを口にさせる。
「どこが変なんだ?」
アイダンが振り向いて言った。
「よくはわからないけど……」
「ダーパから見れば、我々は破壊工作のリハーサルに挑むテロリストってことになる。緊張に感情を揺さぶられることはよくある」
それだけだろうか?
だが、その疑念は長く脳裏にはとどまらなかった。
高校を出て以来、運動らしい運動などしていなかった僕の肉体はすぐに泣きをいれてきた。舗装路ならまだしも、30センチはあろうかという残雪を歩くにはカンジキが必要だ。固まってると思いきや、足を乗せた途端、膝下まで沈み込むところもある。想像してみてほしい、左右長さの違う足であるかねばならない状況を。『下半分はゴム素材、上は湿雪に強いシンサレート素材』であるはずの138ドルのスノーブーツは、なかまでにびしょ濡れになっており、この調子では四月にシモヤケで医者にかかる羽目になりかねない。
「ふぁるい(悪い)けど少し休ませてくれないか。靴下を履き替えたい」
息は上がり、懇願口調になっていた。声が届いたブレンダンは腕時計を眺め、次に林冠から空を透かし見て言った。
「わかった、少し休もう」
とうに三十分は歩いたはずだと思って腕時計を見ると、森に入ってから二十分ちょいしか経ってない。腰を下ろしたかったが、切り株はそこらに見当たらず、残雪に座ればズボンを濡らすことになる。そっちの替えは持ってきてなかったので太い木の幹にもたれて靴下を履き替え、バックパックから水を取り出して飲んだ。
〔だらしない奴だな〕
悔しいが言い返す気力もない。
〔寒くなるぞ〕
――なにをする気だ?
〔サブちゃんに頼んで疲労の回復を図る〕
すると突然、冷凍庫のなかに放り込まれたような寒気が襲ってきた。
――風邪を引いちゃうじゃないか!
〔少しの間だ、我慢しろ〕
――疲労は筋肉に乳酸がたまるからだろう。なんで体温を――あれ?
〔どうだ〕
――う、うん。
驚いたことに、伸びたゴムのようだった膝に活力が戻り、バクバクだった心臓は新品に取り替えたように安定したリズムを刻んでいた。
――体温が下がると乳酸の蓄積が解消されるんじゃなかったっけ?
〔その情報は相当古いな。ここでアシドーシスについての講義をしてる時間もないから簡単に済ませよう。こいつらが使っているロッジにはダーパのコンピュータから拝借してきたようなファイルが山ほどある。体温を下げて疲労を回復させるのも、そのひとつだ。アイダンが席を外した隙に盗み見ておいたんだよ〕
――じゃあ、理論的な裏付けは?
〔ない。まあ、疲れがとれたならいいじゃないか〕
……。
「まだ全行程の三分の一だ。そろそろ出発しよう」
ホキイとなにか話していたブレンダンが靴紐を結び終えた僕の許にやって来て言った。




