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ナイフを入れた途端、大量の肉汁が溢れるテンダーロインはデカくて柔らかく、地ビールもそれなりにイケる。お堅い公安調査官が星を幾つ与えたのか興味のあるところだ。
知世が切り分けた肉片で口をいっぱいにした愛ちゃんも〝美味しい〟を満面の笑みであらわしていた。
「パパ、にんじんもたべなさい」
鉄板の隅に追いやったにんじんのグラッセを、愛ちゃんが目敏く見つける。
「あはは」
「あまくておいしいよ」
そこがいけない。僕の偏食家たる所以は、〝おかずは辛くあるべし〟という頑迷な一家言による部分が多分にあり、その理屈でいくと、甘く煮たにんじんのグラッセはおかずとは看做せない。肉の隣にいて当然という傲慢さも許し難い。
愛ちゃんは、そのつぶらな瞳で鉄板と僕の右手を注視してくる。食べなきゃいけないのか――。
「パパはね」僕の窮地を救ってくれたのは知世だった。「ママの大好物のにんじんを残してくれているのよ」
「ふうん」
「彼らは」愛ちゃんが納得しかけたので、僕は即座に話題を転ずる。「まるで僕たちの行き先を知っていたかのようだね」
知世は目線で邦人観光客の存在を訴え、テーブルの上に手を伸ばしてくる。彼女の白く長い指に僕に節くれ立った指を絡ませた。そう言えばイタリア語の〝聞く(SENTIRE)〟は〝触れる〟という動詞の意味も持つそうだ。イタオヤ諸氏がロマンチストである理由がわかる気がする。
――氷河クルーズはホテルの部屋から電話で予約したの。
――盗聴されてたってこと? 印南さんは君に触れようとしなかったよね。あれは――。
「パパとママってさあ」愛ちゃんの声に僕はドキリとした。僕と知世の絡めあった手を見つめている。幼児特有の鋭さでなにかに気づいたのだろうか。「すごーく仲良しだね」
「そうよ、ママはパパが大好きなの」
レストランの効きすぎた暖房のせいばかりでなく、発汗が止まらなくなってきて僕は知世の手を離した。
「ここは暑いね」
掌の汗をジーンズで拭って戻した時、そこにあった知世の手はフォークを愛ちゃんの口に運んでいた。
〔想定内ってことか――〕
――なにが?
〔またか……〕
――なにが〝またか〟なんだ?
〔それだよ。〝なにが?〟〝どうして?〟〝なぜ?〟――たまには自分の頭で考えたらどうなんだ〕
――おまえだって僕の頭じゃないか。
〔この頭じゃなく、そっちの頭のことを言っている〕
いつかもこんな言い合いをしたような気がする。
〔喧嘩は止めろ、見苦しい〕
――なんだと!
〔いまのは僕じゃない。サブちゃんだ〕
――え……。
例の倉庫の件で礼を言っておくべきだろうか。だが、自分の生存本能に頭を下げるのもバカらしい。
〔とにかく、これではっきりしたことがある〕
――公安調査官が追っているのは、あの倉庫の件だけじゃないってことだろ。
〔そうだ、珍しく冴えてるじゃないか。だが、それにしても――〕
――なんだよ?
〔いや……、いい〕
――勿体つけやがって。
「ねえ、明日はミッドタウンに行かない?」
脳内での遣り取りは数秒とかからない。知世の発言は自然な流れのなかで行われた
「この子に上着を買ってあげないと」
知世はデザートのベイクドアラスカに夢中になっている愛ちゃんを見て言った。
「僕は構わないけど……」
下着類はホテルの売店で間に合うが、ここより標高の上がるガコナに向かうとなれば、日本を出たままの出立ちでは心許ない。知世のトレンチコート姿は見とれるほど素敵だが、その形の良い生足を露出し続ければ、〝衝動の否定は人間らしさの否定だ〟とばかりに善良な市民が性犯罪者に変貌しかねない。アンカレッジの犯罪発生率はアメリカの全国平均を上回っているのだ。
迂闊に手を出そうものなら転換発作に見舞われることなど悪漢どもは知る由もないだろうが、防げる危険は未然に防いでおくのが大人というものだ。
「じゃあ、決まりね」
「デイヴィッドが怒らないかな?」
仕方ないじゃない、とでも言うように知世は肩をすくめてみせた。




