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「ラッコだー、いっぱいいるー!」
「そうね。ほらあそこ、愛みたいな子どものラッコがいるわよ」
「ほんとだー、すごーい」
僕も凄いことになっていた。船酔いする前に酔っ払って眠ってしまおうと思い、砕けた氷河で作ったというオンザロックをがぶ飲みしたまではよかったのだが、デッキのベンチで目覚めた途端、空が猛スピードで頭上をグルグルと回っていた。
「パパもみてみてー」
「……うん」
『パパは後で見るよ』『パパの分まで愛に見ておいてもらおうかな』どっちの言葉にも口を開く動作があり、開いた途端に声以外のなにかが飛び出す予感がある。「トイレに」腹話術師のように口を開かず言って僕はデッキを後にした。
船内の案内が壁に貼り付けてあるのだが、目が回ってよく読めない。僕同様、真っ青な顔でフラフラ歩いている観光客がいたので彼の後を追うことにする。
船のトイレ自体使うのが初めてだった僕が、そのシステムに精通しているはずがない。だが、なにかトラブルが起きていたことは明白だ。流れていていいはずの吐瀉物で便器はなみなみと満たされていた。これを見て嘔吐しないひとは、余程、鈍感な御人に違いない。幾らかでも余裕のあった便器に吐瀉物を追加した僕は、少しだけ気分が戻っていた。手を洗い、涙を拭って口をゆすぐ。思いきってえずいたせいで眼の毛細血管が切れ、充血していた。
洗面台にもたれ一息ついていると、件の便器からゴボゴボゴボゴボッと不気味な音が聞こえてきた。
ここにいてはいけない!
危険を察知した僕はレストルームから通路に飛び出す。フワッと船体が揺れたかと思うと、ドアの開いた個室の便器が茶褐色の個液入り混じった内容物を噴出し始める。その勢いたるや怒れる火山のようで、生きとし生けるものすべてを屈服させる迫力に満ち満ちている。
次に隣の個室の便器が――、そしてこれは視認できてないが、一番左の閉じられたドアのなかも同様の結末を迎えていたはずだ。
僕の耳にそれは届いていたが、悲鳴の主を助けようとする気はまったく起きなかった。酒、船、両方の酔いが一気に醒めていく。茶褐色の恐怖が僕に与えた衝撃はそれほど大きかったのだ。
「パパー、さちがいたよ」
デッキに戻った僕に愛ちゃんが叫びながら駆け寄ってきた。
「さち? シャチのことかい?」
「うん、さち!」
愛ちゃんは江戸っ子ではないが、少し舌足らずなのでこうなるのはやむを得ない。戸籍上の父親として温かく見守っていこう。
手を繋いで知世がいる舳先までを歩く。上機嫌の愛ちゃんはスキップを踏んでいた。
「愛、それ、いつ憶えたんだい?」
「それって?」
「スキップだよ」
「すきっぷってぇ?」
僕は思った。この子は天才かもしれない。帰ったら体操教室を探して通わせよう。
「大丈夫?」
「うん、もうすっかり――」
「その子に聞いたでしょうけど、シャチのつがいが見れたのよ。湾内には滅多にあらわれることがないそうなの。残念だったわね」
「へえ、そうなんだ」
風で顔にかかる髪を知世がかき上げる。愛ちゃんと過ごす時間の長さは、仕事に出掛ける僕が圧倒的に不利だ。愛娘の才能については知世にも黙っていよう。
強風は知世のスカートをコートの裾ごと危うい角度にたなびかせている。僕は彼女の風上に立ち位置を選んだ。
鑑賞に価する脚線美の持ち主が、あまねく審美の壇上に置かれる宿命だとは思わない。ラッコもシャチも見ていたはずの観光客に、この上、妻のショーツまで見せてやる義理はないとの意思表示だった。
男性観光客の間からどよめきが起こる。それは狭隘な僕へのブーイングではなく、正面の氷河が崩れ落ち、大きな水しぶきが上がったことへの驚嘆だった。




