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「おいしかったね」
「うん!」
実際はそれほどでもなく、僕たちが持参した〝空腹〟という最良のスパイスがそう感じさせただけかもしれない。もとより僕は〝食べる〟イコール〝燃料補給〟といった人間で、味が濃くてボリュームがあれば事足りてしまう。
「さあ、ママのところへ戻ろう」
勘定は部屋につけておけばいい、そう知世が言ったのでチップの額でテーブル係りの女性を怒らせる心配もしなくて済んだ。だが――。
偏食の僕が付け合せの野菜を残していたのを見たテーブル係の女性は「あんたは子どもか」という視線を送ってくる。正真正銘の子どもである愛ちゃんのプレートはきれいに空になっていた。知世の躾がよいせいだろう。しかし僕は、〝野菜を食べないと大きくなれない〟若しくは〝肥満になりやすい〟には反論したい。週刊誌にあったのだが、実は一流アスリートには偏食家が多いそうだ。前述のイチロー選手やイタリアサッカーのプロリーグで活躍したマイク・タイソンみたいな顔のN選手も野菜嫌いで、体操のU選手は小粒だが、チョコレートやプリン、ハンバーガーを主食にしていてなお世界選手権個人総合連覇記録を持っている。名前を聞けばゴルフ通でなくとも知っているスーパースターもジャンクフードばかり食べているそうだ。食事で接種しなくとも、人体が必須栄養素を生成するなりなんなりしてくれる証明ではないだろうか。
残念ながら、それをテーブル係の女性に説明する語学力が僕にはない。口に運んだ手を顔の前で振るという動作で伝えようとしたのだが、どうやら別の意味に取られたらしい。下げようとしたグリルプレートを手に憤然とこちらに向かってくる。僕は愛ちゃんを抱き上げて駆け出した。
「どうしてはしってるの?」
「なにか誤解があったみたいでね」
「ごかいってなあに?」
「鉄板でひっぱたかれることだよ」
「じゃあにげろー」
そうしてるってば。
テーブル係の女性に〝是が非でも懲らしめてやろう〟という気はなかったらしく、エレベーターホールまで追いかけてくることはなかった。部屋までの間に息を整え、僕は何食わぬ顔でカードキーをスロットに通した。
「なにを食べてきたの?」
バスローブに着替えていた知世がやけに艶っぽいものだから僕の息は再び乱れ始める。危うくむしゃぶりつきそうになる僕に自制心を教えてくれたのは愛ちゃんだった。
「えっとねえ、おさかなのふりるー」
「なんだったの?」
知世は、愛ちゃんに向けた笑みをそのまま1度ずらし僕に問い直す。僕はと言えば極彩色のヒレを駆使して泳ぐサーモンやスケトウダラを想像してにやついていた。
「グリルだよ」
「ああ……」
広範な知識を持つ知世だが、こういった類推は苦手だった。それが決して母娘としての歴史の短さによるものではないことを、後日僕は知る。
「明日はラッコを見に行きましょう」
「やったー」
知世の提案に、愛ちゃんは僕の腕のなかではしゃいだ。
「デイヴィッドとの約束はいいのかい?」
「ガコナは快晴の予報よ、それに――」
「じゃあ、決まりだね」僕は知世が言い終えるのを待たずに同意した。監視が続いていればハープのあるガコナへの直行が本来の目的を気取られることにもなりかねない。それは手を繋いでなくたってわかることだ。
「愛、お船に乗ろうか?」
「えっ? お船はちょっと……」
「うん! わーい、お船だー」
この時点で僕の意見は多数決型民主主義に押し切られる。朝食はなるべく胃にもたれないものを選ぶとしよう。




