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「パパー、みてー、すごーい」
「ほんとだー」
到着ロビーには熊の剥製が置かれており、僕と愛ちゃんはガラスケースに張り付いて見入る。
「俊哉、口! 愛にそんな残酷なもの見せないで」
あんぐり開いた口と行為を知世に注意される。〝見て〟と言ったのは愛ちゃんなのに……。
「ママ、なんかおこってる?」
「そうみたいだね」
僕の心より――そう、まさに心からのプロポーズが知世を不機嫌にしたのではないことを願いたい。次に愛ちゃんは僕の袖をつんつんと引っ張る。「ん?」腰を屈めて耳を寄せると「パパ、うわきした?」と、ひそひそ声で。
「するもんか!」
意図したより大きな声になってしまい、周囲から注視を浴びてしまった。
ロビーを出た知世はスタスタと客待ちのタクシーに向かう。
「迎えは来てくれないのかい? シアトルではデイヴィッドじきじきに出迎えてくれたのに――。なんてゆうか、こうあからさまに態度を変えられると却って気持ちいいね」
「ごめんなさい、わたしが出迎えを断ったの」
「あっ、そうなんだ」
「さっきのふたりに監視されているかもしれない。仲間との接触を見られるのは避けたかったから」
「なるほど、一理あるね」
「シチリあるね」
愛ちゃんを経由すると『理』が六つも増える。僕は愛ちゃんを抱き上げた。戸外の冷気は涙を滲ませ、氷粒の混ざった風が露出した皮膚を切りつけてくる。この子が風邪を引いてもいけない。僕はタクシーのドアに手をかけて言った。
「乗ろう」
髭面の太ったタクシードライバーが降りてきてトランクに積み込む荷物がないことに不思議そうな顔をする。慣れとは恐ろしいものだ。なんと彼は半ズボンを穿いていた。
運転席に戻ったタクシードライバーがなにか言い、知世が訳してくれる。
「寒かっただろう、ですって」
タクシードライバーの太い指が指す〝EXT TENP(外気温)〟を見るとマイナス6℃と表示されている。僕は日本を出た時と同じ、薄手のセーターにダウンジャケットを羽織っただけ。下着類も普段通りの物しか身につけてない。なぜだろう? 元来、寒がりのはずの僕が――。
〔サブちゃんのお蔭だな、チューモ瞑想は知っているか?〕
――なんだ、それ?
〔チベットの修行僧がやる荒行だ。素肌に氷水に浸したシーツを被って瞑想にはいると、体表温度が10℃は上がるそうだ〕
聞いているだけで股間の器官が収縮しそうになる。
〔さっき車のドアに手をかけたろう〕
――かけたけど……、それが?
〔体表温度を上げてなければ手の皮がベロリといってたぞ〕
あっ、なんと迂闊な……。そう言えば書店で立ち読みした旅行ガイドに〝素手で金属に触らないこと〟と書いてあった。
向こう見ずになった僕と肉体を強要せねばならない生存本能君の自衛手段とでも言うべきか――僕は優秀なDFMに感謝を捧げる。
「色々あって疲れたでしょう。ホテルに直行してもらうわね」
知世が運転手に『ヒルトン』と告げたのを聞き、僕は狂喜した。世にフォーシーズンズやウォルドルフ、リッツ・カールトンなど、一流と呼ばれるホテルは多々あるが、クリスマスに奮発するシティホテルが精一杯だった僕に『ヒルトン』の敷居(和室はないだろうが)は胸元ぐらいの高さがある。同じ名前のラブホテルが勤務先の近くにあるが、ああいったものは商標権の侵害にはならないのだろうか。
「――Exactly」
タクシードライバーが「観光か?」とでも訊いたのか、知世はそう答えていた。
彼が語ったなかには〝jughead〟と〝Boy〟が聞き取れた。もしかすると「その冴えないボーイが旦那か?」とも言われていたのかもしれない。




