73
そこで僕は、はたと思い当たる。
――もしかして、僕に『シリーズ脳化学全六巻』や『電気磁気学の理論と応用』を読ませたのは、今日のこの時のためだったのかい?
――あなたにはそういった知識が必要になるとの予感はあった。でも、いまのあなたはわたしにも予想できなかったわ。
――へーえ。
僕に語彙の狭まった日本人は笑えない。
――だけどデイヴィッドはどうしてあんなにハープの破壊にこだわったんだろう。うっ……。
突然、強烈な尿意に襲われた。
「ごめん、ちょっとトイレ」
席を立った僕に2ちゃんねるは辛辣な口調で言った。
〔しっかり観察していれば子どもにだってわかることだぞ。あの変な地震の直前、知世はいつも具合が悪くなった。ROHの連中は超低周波に弱い。デイヴィッドと知世の会話を聞いてなかったのか〕
――えへへ。
だって洗脳されかけてたし。
〔まったく――。身体を共有している者として恥ずかしいよ〕
――どうもすみません。
世界広しと言えども、自分に叱られ自分に謝るようなのは僕だけではないだろうか。
〔とにかく、僕がこれを知っていることは連中に気づかれないほうがいい〕
――それで知世から離れたのか? 尿意はどうやったんだ?
〔サブちゃんに頼んだ〕
――さぶちゃん?
〔Subconscious――潜在意識だよ。あの埠頭で顕在化した生存本能のことだ〕
あまりセンスのいいネーミングとは思えない。演歌の大御所より先にゲイ向けの雑誌が思い浮かんだ。偽の尿意だったはずが――
〔よく出るな〕
――ほっとけ!
一体全体どこで集めてくるんだ、ハリウッドスターのそっくりさんばかり。ブロンドのザック・エフロンやポール・ウォーカーが実物どおりの年代で、髪の色もそうなら機内は大騒ぎになったに違いない。クリスチャン・ベールを若くしたのとウィリアム・モーズリ似の優男もきっとデイヴィッドの命を受けていたはずだ。
トイレから戻る際、デイヴィッドの仲間をちら見して思った。テレビドラマを観ない僕が知らないだけで、日本にいたイケメン三人組も、きっと人気俳優によく似ているのだろう。
こんちくしょう! 四番バッターばかりじゃ打線は組めないんだぞ。
負け犬の遠吠えを受けて2ちゃんねるが言った。
〔集めているのでもなさそうだぞ〕
――ふーん。
訊いても〝いずれわかる〟としか言わないだろう。僕は敢えて興味のないふりを通した。
――後悔してない? こんなふうになってしまったことを怒っているんじゃない?
席に着いた僕の手を取って知世が訊ねてくる。
――別に怒ってはないよ。
ハープの破壊で罪なき命を救えるならそれは正義で、女性に声を欠けるほどの緊張を伴わずに実行に移せる行為だ。
――どうして、そんなに優しいの?
『モテない君』である僕の言葉では説得力に欠けるかもしれないが、愛とはすべてを赦せる度量を言うのではないだろうか。
いま、はっきりとわかった。僕は知世を愛している。
〔そんな素性もわからない女をか?〕
――そんなの、どうだっていい!
僕をじっと見つめていた知世が顔を寄せてくる。彼女の柔らかい唇が、僕の潤い不足気味の唇に押し当てられた。
一緒に暮らすようになってほぼひと月が経つが、これが僕たちのファーストキスだった。あの〝めくるめく快感〟は何度も体験していたというのに、だ。
雲の上で訪れたこの世のものとは思えない甘美さに僕の胸は早鐘を打ち続ける。海王星の重力に囚われた惑星トリトンのように、知世に魅了された僕のハートもいつか砕け散ってしまうのかもしれない。




