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出発を早めたのが功を奏し、空港内で例の二人組の姿を見ることはなかった。搭乗カウンターで預ける荷物がひとつとしてなかったことが職員の不審を誘ったが、知世がどうにかして注意を逸らしてくれたので、怪しまれずに機内にはいることができた。デイヴィッドの言ったとおり、アンカレッジ行きの機内に東洋人の姿はない。
2ちゃんねるの厳しい追及に、知世は疲れた顔をしていた。愛ちゃんに向ける笑みも心無しか弱々しい。優しい言葉をかけてあげたいとは思うのだが、知世にとって僕と2ちゃんねるは同一人物だ。DV男の愛憎ループのように思えて躊躇われていた。そう言えばデイヴィッドの綴りにも〝D〟と〝V〟が入っている。
席に着くと知世は訝しげに周囲を見回し「やはりね」と声を抑えて言った。
「やはりって?」
僕が訊ねると知世は人差し指を口元に当てる。それを見ていた愛ちゃんが「パパ、静かになさい」と殊の外、嬉しそうに言う。その気持ちはわかる。たいていの子どもは、大人が叱られるのを見るのが楽しくて仕方がないのだ。
知世が僕の手を握る。テレパシー、そう言いたいのは山々だが、脳から喉頭への発話司令である神経衝撃音を解析して会話に代えるという煩雑な行為を始める合図だった。
――それで?
――この席はデイヴィッドの仲間たちに囲まれている。
ギョッとして立ち上がろうとする僕の肩を押さえて知世が続ける。
――心配しないで。あなたがちゃんとハープに向かうかどうか見張っているだけだから。
「ひとを信用しないってのは」僕は声に出して言った。「手間暇のかかることだね」
中学生のころ読んだ半村良先生の小説を引用してみた。
――僕がアラスカ行きに乗らなかったら、彼らはどうしたろうね。
――わからない。でも、ひとつ言えることは、意識を操作できなかったあなたを、デイヴィッドは恐れている。
ひとに軽視されるのは気分のいいものではないが、無闇に恐れられるのも僕の望むところではない。
払うべき敬意を払わねば人間関係が悪化するのは必至で、僕を洗脳できなかったから恐れるというのは、如何にも手前勝手過ぎるのではないだろうか。
洗脳と言えば……。
いわゆるマインドコントロールには多くの手法があり、シンプルなものではカルト集団が用いる『飴と鞭』式対話がよく知られている。これが馬鹿にできないことは、ジム・ジョーンズ率いる人民寺院の集団自殺事件――ガイアナの悲劇が証明している。ここアメリカでは、CIAによるMKウルトラというマインドコントロールの研究が行われていた忌まわしき過去があり、LSDなどの薬物投与や電気刺激を使ったものに八十以上の大学や研究機関が参加していたそうだ。そして現在も、各種疾患の治療と称して、脳にサブリミナル刺激を送って発話をコントロールする研究やマイクロ波で情動を操ろうとする研究が続けられている、と『シリーズ脳科学』の五巻に書かれていた。個人が行えば犯罪で、国益に叶えば罪に問われないという括りはどう考えたっておかしい。
〔デイビッドが使ったのは『飴と飴』だったけどな〕
――うるさい!
誇れるものなどなにもないと考える僕だが、あれだけ褒めそやされれば〝いい気〟になってしまうのは無理からぬことだ。ただ、それを肉体と精神を共有するこいつに言われると無性に腹が立つ。




