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「任務は果たせよ」
好青年の仮面を脱ぎ捨てたデイヴィッドは、車から降りもせず冷たく言い放つ。
「……わかってる」
知世は言葉少なに答える。
何度も言うが僕は外国語が苦手で、知っているセンテンスは数えるほどしかない。それでも言わずにはいられなかった。さもなければ覚えた甲斐がない。僕は車のドア越しにデイヴィッドを見据えた。
「I'm just wondering, do you even remember when you first sold out?(君はいつ堕落したんだい?)」
「レインメーカーの台詞か? ふん、ひどい発音だな。だが、答えてやろう。我々は堕落などしていない。目覚めたんだよ」
デイヴィッドはタイヤを鳴らして走り去って行く。メインターミナルの大きく張り出した屋根がデパーチャ・ドライブに長く暗い影を落としていた。
「こんなことになってしまってごめんなさい」
搭乗を待つロビーで知世が言った。愛ちゃんは知世に買ってもらった飛び出す絵本に夢中になっている。
「君のせいじゃないさ。デイヴィッドは君たちのリーダー格だったのかい?」
「そういったものは存在しないはずなんだけど――」
「じゃあ、メンバーの意見を上手く取りまとめたってことかな」
「そうかもしれない」
知世は下唇を噛んで視線を遠くに投げた。
〔借りるぞ〕
そう言って2ちゃんねるが奪おうとしたのは、発声器官の指揮権だった。
――おい、勝手な真似を……。
〔保護はオーダーから交換条件に変わった。悠長なことをやっていたら、その子の身にも危険が及ぶんだぞ〕
僕は、瞳を輝かせて絵本を読み入る愛ちゃんに眼を向けた。それを持ち出されては従わざるを得ない。斟酌を感じない性急さで、2ちゃんねるは知世に迫る。
「君は静電気程度でも脳波をいじることができるといった。だが、そのためには参照になる脳波モデル、つまり脳の活性パターンをアルゴリズム化したものが必要となるはずだ。そういったものが君やデイヴィッドの頭には入っているのか?」
考え得るニューロン同士の組み合わせは、宇宙に存在する原子の数以上だと言われている。ただしそれはカウパー線液……、もとい、カウパーベルトやエリス発見以前の宇宙であり、無限宇宙説を唱える宇宙物理学者たちは絶対に認めやしないだろう。
「そうね」
知世の返事は〝はい〟とも〝いいえ〟とも取れる曖昧なものだった。
「ハンズワース教授を立たせ、歩かせたふたりにも同じ力が?」
「思考や発話同様、筋活動も脳からの電気信号で行われている。信号の組み合わせが単純な身体的活動なら、わたしたちの誰だろうと操作が可能よ」
教授のぎくしゃくした動きは、自らの意思で手足を動かしてなかったせいか――。
「なるほど、側頭葉のシステムを必要としない身体運動なら脳波モデルを参照する必要もないという訳か。だが、教授は話した。デイヴィッドと身体的接触のない状態で」
「あのふたりにLIP(外側頭頂間野)に電気刺激を送ることはできない。あれはおそらくデイヴィッドが後催眠暗示でもかけていたんじゃないかしら。彼はサイコセラピストの博士号を持っているの」
ふたりの話は難しい。僕は述語論理ではなく類推や隠喩を多用するアナログ思考にチャンネルを切り替えた。簡単に言えば〝漠然とした理解にとどめておこう〟ということだ。
「デイヴィッドの謀反を〝彼〟とやらに報告しない理由は?」
「彼らが過ちに気づいた時、戻れる場所を奪うようなことは、わたしにはできない」
「仲間思いなことだな」
「あなたは……、俊哉よね?」
2ちゃんねるはいきなり僕にバトンを渡す。
「う、うん。色々あり過ぎて気が動転しているみたいだ」
「デイヴィッドに追従しているのはメンバー全員ではないわ。わたしを信じて。彼らを説得できない時には、全力でプランBを阻止する」
「うん、信じるよ」
発声器官の指揮権は再び2ちゃんねるに移った。
「ROHのメンバーがスキンシップを好むのは、掌の発汗量から前頭前皮質の機能を測っているんだと思ったが違うな。君たちは掌で神経衝撃音を読み取っている。そして例のコンタクトで見るMEG波形で情報を補足・修正する。これがひとの考えを読み取るための機序だ、違うかな?」
――〝きじょ〟ってなんだ?
〔メカニズムのことだ〕
「そうね。搭乗よ」
その声にはアナウンスに救われたような響きがあった。
「君たちのネットワークについても訊きたかったんだがな」
2ちゃんねるは特に遺憾をあらわすこともなく。あっさりと僕に肉体を返してきた。




