07
「なんだ、そのしけたツラは。プロポーズはどうなった?」
亜美、若しくは番組進行係であって欲しいとの期待は、上がり口に立つ友人、早川修司のズングリした身体と、各パーツが中心に集まり気味の顔に掻き消されていた。
「おまえだったのか」
「おう、俺だ! いるのか、亜美嬢は?」
上がれとも言わないのに早川は、落胆する僕を置き去りにしてズカズカと上がり込んでいった。
「よお、亜美ちゃん。プロポーズは受けてやったのかい?」
えっ、そんなはずは……。
遅れてリビングに戻った僕の顎は、フロアに届きそうなほど落ちていた。なんと早川は、知世に向かって「よう、亜美ちゃん」と話しかけていたのだ。
僕の眼がおかしいのか? ふたりは握手までしている。
「ううん、断った。わたしたち、結婚は上手く行かない気がするのよね」
早川が僕に見る。
頬の肉に圧された彼の唇はいつも数字の3状態になっており、初めて見るひとには変化の判別が難しい。だが、僕にはそれが〝えっ〟だと、わかっていた。
違う! それは亜美じゃない。声だって違うだろう、なんでわからないんだ。
「そういうことか……。ま、まあ、結婚がすべてじゃないさ」
先に述べたとおりの容姿である早川だ。その言葉に同病相哀れむの感は否めない。僕が『しけたツラ』だった理由を取り違えて納得した彼は、僕に暑苦しい顔を寄せて言った。
「折角持ってきたんだ。自棄酒にでも飲んでくれや」
気を遣ったつもりか、ギフトラッピングされたシャンパンを紙袋から出してテーブルに置くと、早川はそそくさと帰っていった。。
玄関ドアが閉まると同時に知世が口を開く。
「これでわかったでしょう」
余計にわからなくなったわい! と声を荒らげることができないのは知世が美人なせいだ。『モテない君』は概して美人に対して卑屈になってしまうものなのだ。
「人間の知覚というものは錯覚が寄り集まってできているようなものなの。見ているようでなにも見えてない。聞いているようでなにも聞こえてなんかない。マジシャンはそれを上手く利用しているでしょう。ひとの脳は、なにかを認識する時、三分の一を視覚情報に頼る。ところがその視覚情報そのものが曖昧なの。網膜がとらえた平面画像は、脳で三次元画像に変換される。あるものが見る角度や光線の具合で、まったく別のものに見えてしまった経験はない? そして一度そう思い込んでしまったら脳は修正情報を拒絶する。長期記憶として固定されてしまったら厄介よ。安定化された結論、いわゆる『思い込み』を、脳はちょっとやそっとでは修正してくれないの」
これは神が僕に与えた試練なのだろうか……、僕の人生に於いて滅多に訪れることのない美女との会話が脳味噌の話題だなんて。
「君が早川に錯覚を起こさせたというのか。どうやって?」
「脳波をいじったのよ」
知世はしれっとした顔で答えてくる。
「そんなことが普通の人間に――。あっ、さっき握手してたのは……」
よく、きれいな女性に手を触れられて、ぽーっとしてしまうことがあるが、あれは脳波をいじられているのだろうか。
「聴覚も同じよ。コルチ器官にある有羽毛胞の――」
この後、十五分間に渡って知世が語ったのは、かなり専門的な上、ストーリーとは直接関係ないので省略する。