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本意ではないが、もし紀元前のアテナイで生を受けたとすれば、僕など水を張った穴に投げ入れるまでもなく間引かれていたのではないか、と映画スリーハンドレットを観ていて思ったものだ。それがいま、知世が崇拝するこの教授から、ヒーローの如く祭り上げられている。悪い気はしなかった。
「仮に我々をROHと名付けよう。Relief organization humankind(人類救済団体)を縮めたものじゃ。ROHは戦力というものを持たない。〝彼〟からしてロボット三原則に縛られているのだから、当然と言えば当然のことなのじゃがな。インターネットサーバーへの侵入にデータの改ざん、独自のネットワークによる情報の共有、身体的接触による意識操作など、各分野のエキスパートが揃ってはいるが、今回のような破壊活動となるとからきしなんじゃよ。そこで君のような人間が必要になる。ハープの破壊は物質文明に囚われた人類への警鐘となる。今後も我々のために働いてはくれんか」
教授の言葉は、過去二十八年間の人生に於いて、蔑まれる側に回ることのほうが多かった僕を昂らせた。イケメン軍団の誰ひとりとして成し得ないことを僕が成功させれば、知世だってひょっとしたら――。
「おお! 協力してくれるか」
意識にシールドを設けることが出来ない限り、僕の頭に浮かぶことはすべて筒抜けになっている。
――待って! ふたつ返事で応じかける僕に知世の声が響く。いつの間にか僕の右手は知世に握られていた。
「僕がそれを断ったらどうなるのでしょう」
これは僕の言葉ではない。知世が僕を介して教授に投げかけているのだ。教授は不愉快そうに身体を揺すった。
「ふん、それは少し不味いことになるな。君に与えていた保護を打ち切らねばならん。君の存在もお嬢ちゃんの名前も世界中の諜報機関が知ることになる。その覚悟はできておるのかな」
「進化の可能性を秘めた遺伝子保有者の保護名目で勝手に押しかけておいて、あなた方の意に従わなければ打ち切ると? ROHの理念は。それほど首尾一貫しないものなのですか」
なにやら雲行きが怪しくなってきた。僕をハンズワース教授に引き逢わせようとしたのは知世だ。なのに、なぜ急に水を差すようなことを言い出すのだろう。知世の糾弾は続いた。
「では聞こう。保護に価する遺伝子保持者がどれだけ見つかった。六十人足らずじゃろう。そんな数で二世代、三世代先の進化を待つなどお笑い種ではないか。プランBを実行に移す時が来――」
知世は不意に僕と教授を繋いでいた手――デイヴィッドのそれ――を切り離した。教授はガクリと頭を垂れる。
「これは彼の自由意思が話しているんじゃない! どういうつもり?」
知世は強い口調でデイヴィッドに詰め寄った。
「ふふふ、バレたか。彼の自意識はかなり深いところに沈み込んでいて海馬にも縮小が見られた。典型的なPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症例だな。結果、再生は諦めざるを得なくなったってのが実際のところだ。でも、彼ならきっとこう言ったはずさ」
デイヴィッドは悪びれたふうでもなく、床に転がっていたバスケットボールを手に取り、それを知世にパスする。胸の前で受けた知世がボール放り出すと、ボールは何度かバウンドして教授の足元へと転がっていった。爪先にボールが当たっても教授は微動だにしない。彼の視線は虚しく宙を彷徨い、日本にいた頃のヘミングウェイさんに戻ってしまっていた。




