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 ナイン・イレブン以降、アメリカの空港では物々しい入国審査が施行されるようになった。顔写真の撮影と指紋採取が行われ、審査菅との問答がそれに続く――そう知世から聞かされていた僕は、気を引き締めて審査官と対峙していた。サイトシーングとファイブ・デイズは答えることができたが、職業を訊かれ、僕は困惑する。団体職員を英語でなんと言えばいいのかがわからない。

「Staff Member of Associationよ」

 途方に暮れている僕に知世が耳打ちをしてくれた。胸を張って『ス』と、言いかけたところで黒人の女性審査菅は「All right. Have a good Vacation!」と質問を切り上げ、カウンターが軋むほどの勢いでパスポートにスタンプを叩きつけた。愛ちゃんを抱いた知世は「Hi!」と手を振っただけで素通り。飛行機を乗り換えることになる僕たちはバゲッジクレイムの前でスーツケースが出てくるのを待つ。幸い、例の二人組の姿はその辺りにない。

 ミーハーと笑われてもいい。キャリーハンドルのついたスーツケースを引いて歩くのに僕は憧れていた。この旅行のために購入したシルバーに輝くそれがターンテーブルにあらわれる。僕は颯爽と持ち上げた。するとスーツケースは貝殻のようにパックリと口を開け、衣類やら愛ちゃんの帽子やらをぶちまけてしまう。見ると〝荷物が増えた時でもファスナーを開けばマチが広がって15パーセント容量アップ!〟となるはずの生地部分が刃物かなにかでザックリと切り裂かれ、15パーセントどころか無限大にまで容量がアップされていた。

「なんだこれ……」

 呆然と立ち尽くす僕の視界の端に例の二人組が近づいてくるのがはいった。

「こっちよ!」

 それには知世も気づいたようで、愛ちゃんを抱き上げた彼女は小走りに出口を目指す。僕もスーツケースを両手で抱きかかえて後を追った。まったく、なんのために8個もキャスターがついているんだか――。

「鞄なんていいから、早くっ!」

 知世に叱られて僕はスーツケースを放り出す。

「だめーっ! あいのシカさーん」

 僕はUターンして愛ちゃんの帽子を掴んだ。総ガラス張りのメインターミナルが遠く感じられる。僕たちが走り出すと、速足程度だった二人組も走り出す。

「待ちたまえ」

 何度か背後に迫られ、むんずと襟首を掴まれるかと思った。その度にある種のブーストが僕の脚力にかかるようで、ついに襟首を掴まれることはなかった。

 電撃のひとつでもお見舞いしてやれば悠々逃げ切ることができただろう。だが、この時の僕は必死で、そんな考えに及びもつかない。「ソーリー、ソーリー」と片仮名英語で叫びながらエスカレーターを駆け下りて行く頃には、僕の肺は酸素を使い果たしてぺちゃんこになっていた。

 ロビーにいた警官をつかまえて知世がなにごとか話している。少し距離があったのと喧騒のせい(ついでに僕の英語力のせいもあって)ハッキリとは聞き取れないが「ヘルプ」「オフィサー」「バッドガイ」と知世の唇が動いたように見える。どの国の男性であれ美女に助けを求められ、素知らぬ顔はしないものだ。しかも彼らは法の執行官である。

 背後の足音が止まったような気がした。追跡者たちがたじろいだのだろうか。肩を揺すりながら巨体の警官ふたりがこちらに向かってのしのしと歩いてくる。すれ違いざま、彼らのひとりが「ユーオビーオーライ、ボーイ」とかなんとか言って僕の肩を叩いた。脱臼するかと思った。欧米人から見れば日本人は若く見えるという。しかし、いくらなんでも二十八歳の僕にボーイはない。僕が追いつくのを待って、知世は身を翻した。

 ドアを抜ける時に見た追跡者たちは、警官の巨体越しに恨めしそうな視線を投げかけていた。


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