59
「えええええええええええええええええええええ!」――この大量の〝え〟は、僕の驚きの度合いを表現している。「アラスカだって?」
「ええ。あたし、そう言わなかった?」
言ってない、言ってない。
「まだ桜だって三分咲きだし、朝晩、肌寒く感じるこの時期に、なんだってアラスカなんだよ」
少し知世の美貌にも慣れてきていた僕は、自分が『モテない君』であることも忘れ、無謀にも美人への抗議を始める。
「アラスカは海洋生物の宝庫よ。愛ちゃんに鯨やシャチを見せてあげたいと思わない? グリズリーやビーバー、ヘラジカだっているわ」
「鯨ならハワイだって……、えっ! 愛ちゃんも連れて行くのかい?」
これまた初耳だった。僕はてっきり知世とふたりきりで旅行できるものとばかり思っていた。
「置いていく訳にはいかないでしょう」
「……それもそうだね」
ちょっと待て! 僕はまだアラスカには同意していないぞ、とばかりに抗議を再開する。
「だからって、なにも――」
知世が瞳を潤ませる。たったそれだけで僕は幾つか用意していた抗議文を取り下げてしまった。
「まあ、まだ冬物も片付けてないし……」
「いいの?」
嫌と言えるはずがない。僕を気弱な『モテない君』に産んだ両親を恨んだ。知世はそんな内心を見透かすかのように、心から羨ましそうな顔で僕の出自を褒める。
「ありがとう。あなたはあたしが思ったとおりのひとだわ。きっとご両親も素晴らしい方々なんでしょうね」
父は自動車修理工場で整備士として働いていた無名のプロボクサーで、母は「赤ん坊のおまえを抱いていて二度ほど落としたことがあるのよ。そのせいかねえ、あまり男前にならなかったのは」と、あっけらかんと語るようなひとだ。とにかく決まってしまったことにはグズグズ言わない主義の僕だ。明日にでもアラスカのガイドブックを買ってこよう。図書館にある旅行ガイドは古いものばかりだった。
「飛行機やホテルの手配はどうする? 旅行会社にでも頼むのかい?」
「大丈夫、なにも心配はいらないわ」
知世お得意のフレーズが返ってきた。
「じゃあ、そっちは君に任せるよ。パスポートがもらえるのは一週間後だそうだ。僕は出発ぎりぎりまで仕事を続ける」
重量税印紙売渡所の業務に引継ぎの必要などない。ブツブツいいながらでも亜美がやってくれるだろう。僕のこの発言は生来の貧乏性が言わせたものだ。
「明日には支所に届くはずよ。だから出発は明後日、のんびりしてはいられないわ」
きっとまたなにかズルをしたに違いない。あの混み合う旅券事務所にもう一度行かなくて済むのは有難いのだが――。
「昨日の地震もハープの発動とシンクロしていることを〝彼〟が確認したわ。ダーパが意図的にこの国に照準を合わせているのか、それともまだ超低周波の反射角を制御できていないのかはわからない。でも、このままだと――」
思案の間を取るようにそこで言葉を切ると、知世は僕の眼を見据えて言った。「また多くの犠牲者が出る可能性がある。ハープを破壊しない限り、この街に安眠が訪れることはないの」
――ええええええええええええええええ!
〔えらいことになったな、おい〕
そう言いながらも何故か2ちゃんねるの声は弾んでいた。




