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「あたしは大丈夫だから」

 既に持っているのか、はたまた例の顔(掌)パスを使うつもりか、知世は僕をひとりで送り出す。

「いってらっしゃーい、きょうもいちいちばんばってねー」

 愛ちゃんは、僕がどこへ出掛けようが同じようにして見送ってくれる。〝スーツを着てないイコール仕事ではない〟といった認識はまだないみたいだ。

旅券事務所、平たく言えばパスポートを発行してくれるところは港町にあるため、普段なら電車を使う。だが、定期入れが見つからなかったためマイカーで出かけることにした。僕のパスケースは小銭入れも兼ねていた。

 ルーフラックのついたRV車を停められるタワーパーキングはない。全部調べた訳ではないが、大抵は『高さ1・9メートルまで』の表示がなされ、全高が2・1メートルある僕の車ははいらない。そして高さ制限のないコインパーキングは観光客に占拠される。こんなふうに平日でもなければ繁華街にあるH県旅券事務所に車で来ることは考えなかった。しかし、今やワールドワイドで『パスポート』が通用する中、こうして旧態依然とした名称を使い続けるのにはどんな意味があるのだろう。これは僕がいつも不思議に思っていたことだ。とは言え、僕の勤める『軽自動車検査協会』も似たようなものだ。来庁者のみなさんは短く『軽協』と呼んでいらした。

 あまり愛想のよくない女性職員に「お渡しは一週間後になります。そちらの窓口で収入印紙と証紙を買って、本人確認のできる書類を持っていらして下さい」と引換書を手渡され、混み合う十階フロアを後にした。初めての申請だったため、慎重派である僕は案内を熟読してから窓口に臨んだ。そのせいで後から来たひとたちにどんどん先を越され、受け取った整理券の番号は三桁。このビルにはいってから出てくるまでに三時間を費やした計算になる。やけにベタベタしていたカップルはきっとハネムーンのための申請だったのだろう。あのまま番号を呼ばれなければ、その場でなにか始まりそうな勢いだった。

 旅券事務所を出た僕の前にひとだかりがあった。回転灯が見え、遠ざかるサイレンの音が聞こえる。どうやら交通事故でもあったらしい。野次馬根性に乏しい僕はさっさと現場を離れかけたのだが、事故車を引き上げるキャリアカーの看板が眼にはいって足を止めた。荷台デッキ側面には『新車・中古車販売 車検・修理(株)遠藤モータース』と書かれている。よせばいいのに僕は事故現場へと足を運んでしまう。

「あれ、トン税君じゃないか。今日は休みか?」

 野次馬の眼が大声で話す遠藤モータースのオヤジさんの視線の先、つまり僕に集まった。彼らの顔は「トンゼイクン? どんな字を書くのだろう」と言っているようだ。

「神内です! 事故をなさったのはお客さんですか? 大変ですね」

「だろう? このお客、今年だけでもう三回目だぜ。今回も状況だけ見れば追突された格好だけど、警察の話じゃ、なんでもないところで急ブレーキを踏んで止まったんだそうだ。『子供が泣き出したから止まったのがなぜ悪い』って、事故の相手に食ってかかってったらしいけどな」

 野次馬の注目は事故状況を解説するオヤジさんに移った。

「三回は多いですね、すべて追突された事故なんですか?」

 野次馬の視線が僕に戻る。

「ああ。トン税君も助手席にチャイルドシートをつけた車の後ろを走る時には注意しろよ。あの連中、ルームミラーなんか全く見ちゃいないんだから」

「気をつけます」

 テニスの試合を見ていた訳でもないだろうに野次馬の視線は僕とオヤジさんを行ったり来たりし、最後に幾人かが納得したように大きく頷いていた。そのうちの誰かにトンゼイクンの表記を訊かれる前に、僕は事故現場を逃げ出すことにした。

 一週間後か、まだ夏服は売ってないだろうな――。僕は通り向こうのファッションビルを見上げ、そして乏しいワードローブを思い浮かべていた。なあに旅行先でも買えるだろうさ、細っこい僕が着たらブカブカのアロハシャツが。

 まだ行き先も決めてなかったことを思い出し、僕は近くの書店に立ち寄る。ベタではあるが『魅惑のハワイ』と『タヒチの歩き方』を買って帰る車中、僕の鼻歌は『Midnight At The Oasis』になっていた


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