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僕の勤める自動車会議所にフレックスタイムは導入されていない。従って往路も復路もすし詰めの電車に揺られるのが日課となっている。
ダイヤ通りの運行が企業戦士のスケジュールを支え、ひいては日本経済の安定に繋がるのだろう。だが、そのために身体的弱者を犠牲にしていいものだろうか。たった一分の停車時間で足の悪いお年寄りや障害をお持ちの方が乗降口を抜けられる保障などどこにもないし、彼らが必ずしも乗降口付近の優先座席に座っているとは限らない。現代の電車には親切な車掌さんもいないのだ。
「すみません、降ります」
僕の前で八十は越えていそうなおばあちゃんが席を立とうとしていた。僕は読んでいた『マインドコントロールその理論と実践』を閉じて言った。
「このひとが降りられるそうです」
僕の声が小さかったせいか、誰ひとりとして通路を空けてくれようとはしない。舌打ちと咎めるような視線のなか、僕は足の悪いおばあちゃんを抱きかかえるようにして乗降口まで連れていってあげた。
「動きがのろいならひと駅前から降りる準備をしておきなさいよ」
「年寄りをひとりで電車に乗せるんじゃねえよ」
聞えよがしな罵声にやりきれなくなって、僕はおばあちゃんと一緒に電車を降りた。
仕事帰りで疲れているのはわかる。会社で面白くないことがあって苛立っていたかもしれない。だけど、もし僕が国税庁の税収員に化けたウィル・スミスなら、彼らに角膜も心臓もあげたくはない。
すみません、すみません、とおばあちゃんは何度も頭を下げ、飲食街の路地に消えていった。改札を抜ける時、肩がぶつかったチンピラ風の男からも舌打ちをもらう。ぶつかってきたのはあっちなのに……。
――歩くか、久しぶりに。
三分咲きの桜並木を見上げ、僕は駅舎を出た。
「遅かったのね」
「うん、実はね――」
僕は、ひと駅前で降りて歩いた理由を知世に話した。
「そう、善い行いをしたのね。手が冷たくなっているわ、お風呂に入ったら?」
「うん、そうしようかな」
「ハープなのかな?」
愛ちゃんが寝つくのを待って。僕は軽自動車検査協会での出来事を報告した。胸の前で組んだ腕の片方を顎先に当て、知世は静かに言った。
「そうかもしれない。ここでは揺れは感じられなかったわ」
「どうすればいい?」
知世のことだ、きっとアメリカの仲間たちに連絡をとり、なんらかの手を打ってくれるものと僕は期待した。
「そうね……」知世は少し考えるように眉をひそめ、やがて言った。「海外旅行にでもいきましょうか」
えっ、こんな時に旅行? 僕の遺伝子を守るため、気象兵器の実験対象とならない場所へ避難させようとでもいうのだろうか。
「いいね、仕事が休めるのなら」
知世は真顔で冗談を言える女性だ、その手には乗らないぞ。
「良かった! そっちはあたしがなんとかする。パスポートは持ってる?」
「……」
僕は、自分が駆け引きの苦手な人間であることをすっかり忘れていた。
「海外かあ、新年度突入早々で、有給を使い切っちゃう訳にもいかないんだけどな」
自動車会議所では慶弔休暇が認められてない。不測の事態に備え、有給は残しておきたかった。
「神内俊哉君、震災被災地復興支援のため一週間の出向を命じます。それでパスポートは持ってるの?」
「……」
また、それか――。
「子供の頃、家族旅行で行ったハワイは母さんのパスポートだったから……」幼い僕が半泣きで母にしがみついている写真は、母が僕をからかう時のネタにされた。「持ってないよ」
「じゃあ、明日にでも申請してきて」
「わかった」
周囲より早くこんがり日焼けした肌になるだろうことが、生涯数えるほどしか感じられないだろう僕の優越感をくすぐっていた。




