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繁忙期となる年度末、手狭だった以前の軽自動車検査協会庁舎では、到着が数分の遅れると、受験者は検査コースから締め出されてしまうことになる。そうはならじと押し寄せてこられる自動車整備事業者さんのため、公的機関らしくない対応――休憩時間の返上――で対応に望むのだが、それでもこなし切れないほどの混雑ぶりで、庁舎を訪れる人々にも殺伐とした空気が漂っていた。
よいお歳を召されたオジサマ同士が胸倉を掴み合っている場面にも何度か出食わしたことがある。そんな時、僕はあらぬ方向に顔を向けてとおり過ぎ、見なかったことにしたものだ。
敷地面積が三倍になった新庁舎ではそんなトラブルも起きなくなったが、受験台数が五割増しになれば重量税印紙の販売機会も五割増しとなる訳で、手の空いた時間に収穫(僕は、あるソーシャルゲームで農業を営んでいる)に勤しむ余裕もない。亜美の手助けが全く期待できなくなった分、例年以上にハードな年度末だったような気がする。繁忙ラブソディ(狂想曲)が鳴り止むのは、毎年、桜の蕾がほんのり色づく頃だ。月が変わっても車検を受けに来る業者さん方の顔ぶれは変わらないが、フレッシュマンが入社する自動車ディーラーでは、空いたこの時期を利用して登録業務の研修を行なうのが慣例となっていた。
先輩社員に連れられて庁舎を訪れる彼らも時代によって様変わりする。ファッションに疎い僕になにも言う資格などなく、個人の趣味と言ってしまえばそれまでなのだが、極端に丈の短いスーツのジャケットや、いちいち手でかき上げないと顔を覆ってしまう髪はどうなのだろう。
僕の死んだ父は最高位が日本七位の、名前を言っても誰も覚えてないようなプロボクサーだった。自分が好き勝手やっていることを承知しており、母や僕にあれこれうるさいことをいうひとではなかったが、中学・高校と坊主頭だった僕が社会人になって髪を伸ばし始めた時、前髪で目が隠れることだけは許さなかった。
「人間は両目で距離を計っている。なにかに襲われた時、距離感というのはとても大切なんだぞ」
この平和な日本で猛獣に襲われることなどまずないが、考えてみて欲しい。片目が髪で塞がって目測を狂わせた免許取り立ての青年が、大切なお子さんの通学路で車を走らせる可能性を。それは僕に雷を扱わせるようなものだ。
その典型が、いま、僕の前に立っている。彼のネクタイは黄色と黒のレジメンタル、あのアニメキャラのちゃんちゃんこと同じ配色だった。
「これって、ここ?」
フランクと言うか、馴々しいと言うか、親の顔が見たいと言うか――。とにかく、かなりいい加減な日本語でもって彼は重量税納付書を差し出してきた。金釘流で書かれた税額も間違っている。
「重量税印紙のお求めはここですが、この車は減税扱いにはなりませんので、あと五千七百円必要となります」
「なんでよ?」
「ホームページでもご案内していると思いますが、規定の燃費基準及び排気ガス規制を満たしてない車両に減額措置は実施されないんです」
「そんなのないじゃん。だって俺、お客に千九百円でいいって言っちゃったんだぜ」
しきりに髪をかき上げながら抗議してくるが、税率は僕が決めたものではない。定められた金額の重量税印紙が貼られてなければ、例え僕がいい、と言ったところで、登録窓口で書類は突き返される。こういう場合、接客マニュアルには『黙って相手を見つめていること』と書かれている。青年の肩に目玉の親父はいなかったので、僕は髪で隠れていない左目を凝視した。
「なんとかなんねーの?」
青年の懇願で、僕は寄り目になってしまう危機を逃れた。
「ええと、おたく様はディーラーさんですよね? 自社扱いの車両なら価格表にも税額は書かれているんじゃないですか。あなたの不注意まで面倒見切れません」
順番を待っている人々の列から「早くしろよ」の声が上がる。ここらが切り上げ時だった。
「あんだと?」
青年は顔色を変えて気色ばんだ。




