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脱衣所の仕切り戸は閉じていないようで、バスルームから笑い声が洩れ聞こえてくる。心の病で自発的に服を脱ぐこともできないハンズワース教授の面倒をデイヴィッドがみているという画は想像に難いが、彼らの仲間には医療関係者もいれば船乗りもいる。そこにハリウッドスターばりの介護士がいたとしてもなんの不思議もない。
「さっきはなにを言おうとしたんだい?」
部屋着になった僕は知世に訊ねる。
「忘れちゃったわ。きっとたいしたことじゃなかったのね」
女性のこういった発言には気をもたせる意味もあるそうだが、知世のような美人が僕にそれを試す理由はない。
「じゃあまた思い出したら――」
「そうね」
彼女のなかで〝いずれわかる〟ことに分類されれば、僕がいくら訪ねても教えてはくれない。
「ねえ、パパー、あれ、だあれ?」
傍で僕たちの遣り取りを見ていた愛ちゃんが、知世の膝に乗って言った。
「ママの知り合いだってさ」
「しりあいってなあに?」
「友達とか……、あっ! 仲間だよ」
それが一番しっくりくるように思えた。愛ちゃんが手にしていた絵本の背にも『地球のなかまたち』と書かれていた。
迎えにはいつかの黒服君が来るのかと思っていたが、高級セダンの運転席、ルームランプに浮かび上がったのは、かのイルカマン、鈴木君の浅黒い顔だった。
「その節はどうも。おっ、愛ちゃんも元気そうだな」
「愛、〝こんばんは〟は?」
知世に抱かれていた愛ちゃんは、胸に顔を埋めるようにして僕の要請を拒否した。時刻は二十三時を回っている。オネムで機嫌が悪かったとしても仕方ない。もしかすると〝イケメン君はパパの敵〟とでも思ってくれたのかもしれない。
「ははは、嫌われちゃったかな」
鈴木君はさして気にするふうでもなく、後部席に回りハンズワース教授が車に乗り込むのを手助けをする。
「世話になったね。またいつか逢える日を楽しみにしている」
デイヴィッドは荷物をいれたトランクを閉めると、僕の前に来て言った。
「あはは、僕は英語ができないから」
おそらくアメリカへ帰るだろう君とは、よほどのことがない限り逢うこともないだろう――そう言ったつもりだった。
「ミス知世が一緒なら」デイヴィッドは僕の肩をポンポンと叩いて言った。「君は世界のどこにだって行ける。好むと好まざるにかかわらず」
「なんだそれ……」
デイヴィッドは僕への返答を拒絶するかのように助手席のドアを閉めた。
「まあ、いっか」
危機管理能力の低下は現代人の宿痾だ。安易にそんな台詞を口にしてしまうことが、僕もそのご多分に洩れないことを証明している。
車の走り去ったほうを見ていた知世の背中で、チュパチュパという音が聞こえる。見ると、愛ちゃんは眠ったまま咥えた親指を吸っていた。
「部屋に戻ろうか」
三歳児の問題行動の原因にはなにがあったっけ? 僕は図書館で借りてきた〝イクメン道の薦め〟を読む必要があった。
「えっ? ええ、そうね」
知世はなにか考え事をしていたようで、急ごしらえの笑顔で僕の声に応じてきた。




