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「ただいまー」
玄関を開けると愛ちゃんが駆け足で出迎えてくれる。パタパタという音に足元を見ると猫を模したスリッパを履いている。こんな小さなレディでも変化に気づいてあげないのは失礼に当たる。
「可愛いスリッパだねー。ママに買ってもらったのかい?」
「うん! おかえりー、きょうもいちいちろくどうさまでしたー」
知世の真似をしているつもりなのだろうが所々間違っているのが微笑ましい。
「ママは?」
「おきゃくさーん」
「お客さん? 誰だろう?」
内向的な僕に来客など滅多にない。この一年、知世の乱入を除けば亜美と早川が来ただけだ。だとすれば知世の仲間が彼女に逢いにきたのかもしれない。答えを求めたつもりではなかったが、愛ちゃんは律儀に返してくれる。
「えっとねえ、おっきいひとと、くさいひと」
「ダメだよ、そんなこと言っちゃあ」
「だって、くさいんだもーん」
僕が小学校の頃、近所のいじめっこに突き飛ばされ、いまや殆ど眼にしなくなった肥溜めに落ちたことがある。糞尿にまみれ泣きながら帰った僕に母は〝くっさー〟と言い、ひどく傷ついたものだった。時は流れ、有機肥料の製法は変わった。この街では畑を見かけることもない。廊下に汚穢の染みがしたたっている様子もない。はて……?
いつか知世は言った。「百聞は一見にしかずよ」と。脱いだコートを自室のハンガーに掛け、僕はリビングへと向かった。
「あら、おかえりなさい」
「Oh ! Hi」
リビングのソファには知世の前にはふたりの外国人男性が座っていた。長身でブロンドの青年が席を立って僕の前に来る。大きな手で握手を求めてきた。
「You must be Mr.Lightning ? It's nice to see you」
「あ、あはは、I’m not much good at Eng――」
「そうか、じゃあ日本語で。僕はデイヴィッド・ハンズワース。どうぞよろしく」
彼の流暢な日本語に僕はコケた。根っからの関西人ではないが、八年もこの地方で暮らしていればそれなりにコケ方も上達しようというものだ。そして愛ちゃんの言う「くさい」の元が呆けたような顔で宙を見つめる老人であることを理解した。外国人の年齢はわかりにくいが、銀髪と真っ白な髭、いつから着ているのかわからない埃まみれのコート姿からそう判断……
「あっ! このひとは――」僕は思わず声を発した。「ヘミングウェイさんじゃないか」
「いいえ、彼の名はジョン・ハンズワース。高名な進化生物学者よ」
この時代、ホームレスの方々は珍しくもないが、外国人ホームレスとなるとそうとばかりも言えない。このハンズワースさんとやらは、昼間、僕が利用する路線の地下道を根城にされ、そこを追い出される夜には駅前アーケードの路地で暮らしておられる〝社会の枠組みを超越した〟方々のうちのひとりだった。僕が彼を覚えているのは、亜美と行った回転寿司でウニばかり注文して食べていたからだ。『老人と海』の作者はアーネスト・ヘミングウェイ。『老人とウニ』僕はそんな駄洒落から彼のことをヘミングウェイと呼んでいた。ヘミ……、ミスター・ハンズワースが資源回収日である金曜日、どこからか調達してきた自転車の前後にアルミ缶を満載して走っていたことなど知らない知世の生真面目な指摘は致し方ないことだった。
「そんな有名なひとが、なんだってまたホーム……、路上生活者に?」
僕の発音ならそんな心配は要らないのだろうが、侮辱したようにとられてもいけないと思い言い直す。
「彼はナイン・イレブンで息子を亡くし、以来、行方がわからなくなっていたという訳さ」
デイヴィッドが答えてきた。
「君も、その……、えっと」
「ああ、ミス知世の仲間だ。彼の息子になりすまして迎えに来たという訳さ」
なりすますって……、デイヴィッドは顔にナイフを入れ、皮を剥ぐような動作をした。整形でもしたのだろうか。
「へーえ」
最近の僕はこれが多い。




